仏師が参加して、分担して作業を行った可能性が指摘されている(注13)。松雲元慶が造像においてこのような分業制をとった背景には、近世仏師の造像のあり方が示されると同時に、萬福寺における范道生の造像のあり方について、ひとつの示唆を与えるものであると考える。以上、十八羅漢像の造像が2段階にわけられた要因のひとつとして、京都仏師の関与の可能性を指摘でき、また、松雲元慶作、東京・羅漢寺の羅漢彫像のように、頭部と体部の造像において制作者が異なるような、分業制を採用した可能性も指摘できる。范道生作萬福寺十八羅漢像は、最初の8軀と残りの10軀で、范道生が造像に関与した割合が大きく異なり、分業制の造像過程において、完成時期を2回に分ける必要性があったのではないだろうか。2、萬福寺十八羅漢像がその後の日本彫刻史に与えた影響について次に、萬福寺十八羅漢像が、その後の日本彫刻史に与えた影響とその展開について述べてみたい。萬福寺諸像の生々しい表現やうねりのある衣文などの捻塑的表現は、その後の日本人仏師による黄檗彫刻の造像では、和様化が進み、日本の当代の好みに合わせた作風へと変化していく。萬福寺十八羅漢像に関しても同様で、また、大雄宝殿に安置する形態もあまり浸透せず、日本の中世末から近世にかけて造像された羅漢彫像が一般的に安置されてきた、山門(三門)上に安置された。このような中で、萬福寺十八羅漢像の図様は、新たな十八羅漢像(十六羅漢像)における一具の図様として、その後の羅漢彫像の造像において受容されたことが指摘できる。その一例として奈良・王龍寺には、萬福寺十八羅漢像を直模したと考えられる十八羅漢像が安置される。王龍寺は元禄2年(1689)郡山城主本多忠平が、父忠義の菩提のため再興した寺院で、黄檗2代木庵和尚の法嗣梅谷和尚を招いて開山した寺院である。十八羅漢像は、本多忠平の妻が萬福寺十八羅漢像にならって寄進したもので、仏工友学によって元禄8年(1695)冬以降に制作・完成された(注14)。顔の表情や服制、着衣の皺など細部に至るまでそのまま採用しながらも、捻塑的表現は幾分やわらいでいる。また、石川・天徳院にも十六羅漢像であるが、萬福寺十八羅漢像の図様をもとに制作されたと考えられる羅漢彫像がある。天徳院は加賀藩3代目藩主、前田利常の正室珠姫を祀る寺院で、5代藩主綱紀が黄檗5代高泉に委嘱して元禄6年(1693)から全堂を中国風に改変していった。羅漢像の安置場所は山門であり、羅漢像も山門と同時期の制作と考えられる。これらの羅漢像は、一部尊者の持物や付属する動物が模様と― 479 ―
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