する「視線の交錯」という仕掛けが、巧みな構図によって作り出されているのである。極細線と淡い墨で描きだされたモノクロームの世界は幻想性を高め、源氏と御息所が過去を振り返りながらあたかも自らの胸中に映る互いの幻影を見ているかのようである。4、図様の創出─謡曲との関わり「官女観菊図」において、又兵衛は過去の作例にも物語本文にもない場面をいかにもありそうな情景として創造した。伝統が尊重される源氏絵にあって、逸脱した図様を創出するには何らかのきっかけがあったのではないか。拙稿では、本図に描かれた情景が謡曲「野宮」に謡われる幽玄な世界に近いことを指摘したが(注7)、本稿ではさらに踏み込んで論じたい。謡曲「野宮」の粗筋は次のようなものである。晩秋、嵯峨野の野々宮の旧跡を訪れた僧は一人の女に出会う。女は、9月7日の今日は源氏が六条御息所を野々宮に訪ねた日であると述べ、自分がその御息所であると明かして去る。御息所の亡霊は牛車に乗って再び現れ、賀茂祭を見物した際に源氏の正妻・葵上との間に起こった「車争い」の屈辱を語り、僧に妄執を晴らしてくれるように頼み、再び車に乗って去っていく。「官女観菊図」に描かれる御息所の表情は抑制され、菊を眺めるでもなく、何かを回顧するような雰囲気をたたえている。その姿は「野宮」でシテの女、つまり御息所が、「花に馴れ来し野の宮の、秋より後はいかならん」と謡い、「花」を光源氏に、「野の宮」を六条御息所に、「秋」を「飽き」に掛けて、晩秋の野々宮の侘しい情景を、源氏の愛を失った自らの身の上に重ねて嘆く姿に通じる。又兵衛が謡曲「野宮」から着想を得て「官女観菊図」を描いたと断言することはできないが、又兵衛が幼い頃に仕えていたとされる織田信雄(1558−1630)が能の数寄者であり、自ら能を演じる名手であったことは『観世流仕舞付』等に記録されている(注8)。このことからも又兵衛が幼い頃から能に触れ、親しむ機会があったのではないか。また、古浄瑠璃絵巻群のように、又兵衛とその工房は芸能を主題にした作品を多く制作していることも注目される。さらに舟木本「洛中洛外図」(東京国立博物館)には四条河原で人形浄瑠璃や歌舞伎などが演じられる様子が克明に描かれており、又兵衛がこうした芸能に興味を持っていたことが窺える。又兵衛の主題選択の傾向からも、本図を描くにあたり又兵衛自身の芸能体験が影響した可能性も充分に考えられよう。― 39 ―
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