2.2010年度助成研 究 者:名古屋芸術大学 美術学部 准教授 栗 田 秀 法はじめにニコラ・プッサン(1594−1665)の風景画は、2008年にニューヨークとリスボンで「プッサンと自然」展が開催されるなど(注1)、近年改めて大きな注目を集めている分野である。初期の1620年代にはヴェネツィア派的な風景表現を試みていたプッサンは、1630年代末から1640年代初頭にかけてA. カラッチやボローニャ派に由来する古典的な理想風景を手掛けはじめる。パリ滞在(1640−42)を終えてローマに戻ってからは画家はもっぱらシャントルーのための第二の「七つの秘蹟」シリーズの完成に力を注ぐが、その仕事の目処がついた1648年から51年にかけて「英雄的風景画」(ロジェ・ド・ピール)を相次いで描くことになる(注2)。この時期に制作された作品を注文者別にまとめると次のようになる。ジャック・スリジエ:フォキオンの葬送のある風景(1648)、フォキオンの遺灰の収集のある風景(1648)ジャン・ポワンテル:蛇に殺される男のいる風景(1648)、ポリュフェモスのいる風景(1649)、風景─静穏(1651)、風景─嵐(1651)リュマニュ:ディオゲネスのいる風景(1648)ミシェル・パサール:足を洗う女のいる風景(1650)カッシアーノ・ダル・ポッツォ:ピュラムスとティスベのいる風景(1651)不明:オルフェウスとエウリュディケのいる風景、足を洗う男のいる風景、ローマの道路のある風景(1648)、三人の男のいる風景、三人の修道僧のいる風景これらのうちの多くがフランス人、とりわけパリやリヨンの上流市民階級であったことは、プッサンの英雄的風景画の成立の背景に社会的、個人的な何らかの特別な事情が存在していたことが予想される。これら14点ほどの英雄的風景画は、主題が存在するものとそうでないものとで二分される。主題をもつものは、2点のフォキオン、ポリュフェモス、ディオゲネス、ピュラムスとティスベ、オルフェウスとエウリュディケ、三人の修道僧の7点で、その― 488 ―①プッサンの歴史風景画の意味構造に関する研究
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