接やり取りがあったと考えられる(注5)。1665年にパリを訪れていたベルニーニがこれらの作品を実見した際に自分の額を指して「プッサンはここで仕事をする画家である」と発言したように(注6)、この作品に見出されるプッサンの高度に精神的な営為が特筆される作品でもある。フォキオン(B.C. 402−318)は紀元前4世紀のギリシアで活躍した政治家で、プルタルコスがその生涯を詳しく伝えている。この人物は有徳の人、ストア主義的な「恒心」の範例と知られ、祖国を何度も救った名将でもあったが、アテネの民衆階級にいた政敵から謀反の罪を着せられ死刑宣告を受けた。宣告を受け入れた彼は威厳を保ちつつ平然と毒ニンジンを呷った。プッサンが絵画化しているのは、アテネの市民たちが処刑にとどまらずさらなる仕打ちを行った次のプルタルコスの次の一節である。それはムーニュキオーンの月の十九日で、騎兵がゼウスの祭りの行列をしながら牢獄の傍を通って行った。その或るものは冠を外し、或るものは涙を流して牢獄の扉に眼を向けた。真底まで残酷でなく怒と憎しみのために心の荒んでいない人々は、その日一日待たずに、祭りの最中の町を公の殺害で汚すのは不敬至極だと思った。ところが政敵は、その仕打では足りないとでも云うように、フォーキオーンの遺骸を境界の外に出し、アテーナイの人は誰もその火葬を営んではならないという決議をした。そこで友人は誰一人遺骸に手を付けようとしなかったが、いつもこういう仕事を金で引受けているコーノーピオンというものがエレウシースの先まで遺骸を運んで、メガラ領から得た火で焼いた。侍女たちと一緒に立ち会った妻はそこに空虚な墓を造ってぶどう酒を灌ぎ、骨は懐に収めて夜家に運び、竈に埋めて…(注7)《葬送》ではフォキオンの遺骸が決議に従い市外に運ばれる場面が描かれ、《収集》では荼毘に付された遺骸の灰を残された妻が拾い集めている場面が描かれている。両作品が特に注目されたのは寸分の隙もなく秩序付けられたその画面構成で、画家の合理的な数学的な思考やストア的な理性的な宇宙の秩序のメタファーとしばしばみなされてきた。フォキオンを主題とする作品はきわめて珍しく、プッサンの先例となった作品は知られていない。フォキオンの名は、1584年版のアンドレア・アルチャーティのエンブレム集では、「自身への苛酷さによって滅びる者」の項目の中で扱われ、ソクラテス、アリスティデス、デモステネス、キケロと並んで言及されている(注8)。しかしな― 490 ―
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