鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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がら、アンソニー・ブラントが1944年の研究で注目したように(注9)、フォキオンは新ストア主義の著述家たちにとって、民衆の無知、移り気、無分別、忘恩の犠牲になった人物である。例えばピエール・シャロンは、『知恵について』(1601)において、「恩恵者に対する恩知らず。褒章を受けるに値するあらゆる人々の公衆からの報償はいつも追放、誹謗、陰謀、死であった。モーセ、すべての預言者、ソクラテス、アリスティデス、フォキオン、リュクルゴス、デモステネス、テミストクレスの物語が名高い。民衆の善と救済をもたらした人のうち一人として逃れられなかった真実である。」(注10)と述べている。またギョーム・デュ・ヴェールは、『恒心論』(1590)において、「古代史全体をあなたの記憶に思い返してほしい、民衆もしくは君主に大きな信用を置き、有徳に振る舞おうと欲する将軍を見出したら、臆面もなく言いなさい「私は請け合う。そういう人は、追放され、殺され、毒を盛られるのである。」アテネでは、アリスティデス、テミストクレス、フォキオン、ローマでは、数えきれないが、紙を満たすために名前を残しておこう。」(注11)としている。ところで、フロンドの乱の直前の1646年に刊行されたピエール=アントワーヌ・マスカロンの『解放されたローマ』においてもまた「賢者フォキオンに死刑判決を下したアテネの民衆」についての言及があることは興味深い(注12)。プッサン自身1649年9月19日付のある書簡で民衆の愚かさと移り気について言及しているように(注13)、フロンドの乱の混乱の中、プッサンにとってもフォキオンはきわめてアクチュアルな存在であったし、ブラントが強調するように、フォキオンの生涯は17世紀中葉のフランスにおける知識・教養をもつ上流ブルジョワジーの理想を体現するものであった。プルタルコスのジャック・アミヨによる仏訳(1559−1565)のフォキオン伝の冒頭に加えられた次の章句は、17世紀でもまた実感を以て受け入れられていたのである。おお、第二のソクラテス、おお、徳の屋台骨よ。死に至った貴殿の生涯、知恵、雄弁、正義というものが、悪徳のはびこるこの不幸な時代にあって、フォキオンよ、どこにいるのか、と何度も私に叫ばせるのだ(注14)。2 「運命の策略」リチャード・ヴァーディは、先述のブラントの研究をさらに発展させた1982年の研究において(注15)、1648年6月22日付のシャントルー宛ての次の書簡に改めて注目― 491 ―

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