鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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本■訓影■しば挙げられるのは、第二世代の浮絵を代表する歌川豊春である。しかし、清長はどんな作品に基づいて西洋画法を習得したのか、といった具体的な話に入ると事情が曖昧になっている。ここでは清長の黄表紙に限って主な遠近表現を紹介した上で、豊春の影響が感じられる挿絵に触れていきたい。周知のとおり、黄表紙とは草双紙の一種であり、恋川春町が安永4年(1775)に『金々先生栄花夢』を著した頃から始まったとされる挿絵入りの小説である。当時の江戸人は、「通」や「穿ち」、つまり花柳界の内情や世間に広がる新事実や噂に関して特に興味を抱いていたが、あらゆるテーマに対する最先端の情報を取り入れて紹介していたのは、この黄表紙であった。大衆の嗜好に応える黄表紙は、短期間で広く支持されるようになり、また浮世絵師には、自らの腕を磨いたり、様式を模索したりすることができる土俵であったといっても過言ではない。清長が手掛けた最も早い黄表紙は、安永4年の『風絵喩さて、清長の筆に成る125種の黄表紙について、残念ながら私はすべてを確認することはできていない。国会図書館のコレクションを中心に確認できた黄表紙の数は、安永6年(1777)から寛政10年の間までに作成されたおおよそ70種に及びそのうち最も多かったのは、安永末期、天明初期の作品であった。具体的には安永7年から天明元年までに作られた66種において、私は40種も確認できたにもかかわらず、安永6年と天明2年まで範囲を広げると、割合は、ほぼ半分に下がる。さらに、出版物が最も多い安永9年の場合は、24種のうち14種、翌年の天明元年の場合は、23種のうち15種というような割合になっている。それゆえ、黄表紙に対する以下の分析は、部分的な段階に留まるが、今後いっそう掘り下げる必要があろう。上述したように、黄表紙というのは、浮世絵師の多くがデビューする前に、人物や背景に対する様々な描写を身につけながら画技を磨いていく機会であり、先輩絵師の画風を模写するとともに、自分の様式の基礎づけが行なえる分野でもあった。室内で■■■■■■■■■― 518 ―■■■■■■■■■■■■■■■■■■附』であり、寛政10年(1798)の『児』は、その最後のものとされる。その間の出版数は125種まで及んでいる。また、清長の筆による版本の中で、黄表紙の他に、絵本番付や狂歌本、絵本も知られている。例えば墨摺絵本を代表する『絵岡』は、俯瞰描写や透視図法などの様々な視点をもって、移り変わる四季の江戸名所を美しく描写している秀作といえる。ただし、天明5年(1785)の作であるこの絵本は、大判錦絵と並んで、円熟期を迎えた絵師の最も洗練された芸術表現であり、清長の様式成立を明かすために、時期的にあまりにも遅いといわざるを得ない。それよりも注目されるのは、清長が数年にわたって力を注ぎ続けた黄表紙にほかならない。流物者物見

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