鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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『鎌■■■■■■■■■■■■が、広々とした背景描写を取り入れなかったことは、透視図法に従う挿絵をまったく描いていないという意味にならない。これら透視図法に従う挿絵2点に詳しく触れていきたい。見開きの幅広い画面を活かした2点の図は、制作順で挙げると安永9年(1780)の倉山紅名』と天明元年の『狆葉浮『鎌倉山紅葉浮名』で描かれている主題は仁王門である。正確な左右対称の構図のちょうど真ん中に、視点と同じ高さに設定された消失点の方に収斂する階段の描写は、清長の一枚絵や挿絵を問わず、それまでの作品と一線を画する短縮描法によって、視線をみごとに誘導している。画面の最下部には、突き出ている鳥居の上の部分が見え、その上から覗かれたかのような群像は、仁王門の方へ進み、三次元的な空間の中へ入ろうとしているのである。その前に聳え立つ絢爛たる仁王門の描写も、堅実で鮮やかな手捌きを示している。金剛力士の左右に、外壁が立てられ、その向こうにほかの建物の屋根と樹木が描かれ、遠景のあたりに、山が小さく見えてくる。一見して群を抜いているこの構図は、厳密にいうならば、消失点と水平線のレベルが不統一であり、相次いでいる石段の消線もそれぞれ異なる消失点に向かって収束している。仁王門の前に舗装された石畳に描写は、それを明らかに示している。安永9年というわりと早い作品でありながら、このように成熟した遠近表現を帆刈るこの挿絵は、清長の趣向というよりも粉本の作品を模倣した可能性がよほど高いだろう。私見では、本図を制作した際に、清長は、4点の浮絵を手元に置いて参考にしていたと思われる。それらはすべて歌川豊春の手による次の浮絵である。「浮絵金龍山開帳之図」、「江戸名所八ヶ跡金龍山之図二」、「王子稲荷之図」、そして、「王子稲荷之図」とともにセットして制作された「目黒不動之図」である。強いていえば、清長は4つの画面の中から異なる要素を引用し、それらを程よく挿絵において組み合わせたと見て取れる。いうまでもなく、仁王門のモチーフは、「浮絵金龍山開帳之図」に倣っている。仁王門の下をくぐる石段は、「王子稲荷之図」の鳥居をくぐった石畳の道を連想させる。仁王門の左右に配されている樹木の場合は、「江戸名所八ヶ跡金龍山之図」でもそうなっている。しかし、何よりも注目されるのは、清長が注意深く作り出したシンメトリーについて、たとえば「浮絵金龍山開帳之図」の全体的な画面はもとより、特に仁王門のモチーフ、左右の樹木や塔頭、門前に吊される提灯も同様の影響を与えているといえよう。これらの浮絵の制作は、明和4年(1767)と安永前期の間の時期に当たっている。つまり、そのすべては清長の黄表紙に先行する作品となっている。の嫁入』となる。― 520 ―■■■■■■

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