鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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縮するありさまも共通する描写といえよう。これらの要素のうち最も注目すべきは、灯火であろう。むろん、江戸時代に一般化したこの携帯灯火具は、珍しい要素ではなく、時期や絵師を問わず、浮世絵の中で幅広い携帯と寸法の多様性で、その姿を現している。しかし、この型式の灯火は、非常にわずかな例外を除くと、豊春の作品の中でだけ窺える。さらにこのデザインは、豊春画において数えきれないほど利用されているため、強いていえば、豊春と密接に関わっている灯火型式といえよう。作例は多い。したがって、清長の黄表紙の中でも同じような灯火が描かれていることは、豊春と清長を密接に結び付けるヒントともなる。ちなみに、この灯火型式を描いたもう1人の絵師として挙げられるのは、円山応挙にほかならない。推測の範囲を出ないが、このデザインを最初に描いたのは、応挙なのではないかと私は考える。応挙の眼鏡絵「円山座敷図」の座敷内に注目すれば、まったく同様の灯火が置いてあることに気づく。さらに、興味深いことに、同じ灯火は、不韻斎と国花堂の作品の中でも見られる。国花堂の筆による「都嶋原あげや座敷」と題される浮絵は、その好例である。不韻斎と国花堂は、前者が門人、後者が追随者として応挙の画業を貪欲に吸収したことから考えると、二人とも灯火のモチーフをじかに応挙から継承したことは、ほぼ確実と考えられる。豊春の場合は、直接の経路も充分に考えられるものの、間接の継承も妥当である。なぜなら、豊春は、この国花堂の作品を模写したという濃厚な可能性が既に指摘されてきたからである。国花堂の描いた京都の景色を、豊春は「三月塩干」の中で、江戸人の嗜好に応じて翻案したのはよく知られている。画面構成が酷似する両方の作品は、模写関係が疑えないが、「御座舗今様子日の遊図」がこの「三月塩干」のさらに翻案された表現なのではないかと私は考える。畳も視点の高さも、また欄間と奥深い室内空間の一点に収斂する天井の直線など、両方の作品を関連づける共通点が見逃せない。豊春は「三月塩干」で受け継げなかった灯火のモチーフを、再翻案された「御座舗今様子日の遊図」の中で、描き出したのではなかろうか。ともあれ、灯火のモチーフだけで、清長の挿絵から豊春、国花堂そして円山応挙へ影響の流れを遡ることができるのは、興味深く思われる。ここで黄表紙に見出される透視図法に関してこれ以上触れたり、また同時期に清長が制作した浮世絵版画における空間表現と比較したりする余裕はないが、以上の作例を通して私は、清長と豊春を結ぶ絆を明らかにする試みを行った。いうまでもなく、清長が透視図法を受容した際に豊春以外の絵師からも影響を受けたと充分に考えられ― 522 ―

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