研 究 者:中山道広重美術館 学芸員 福 田 訓 子はじめに室町時代末期から江戸時代初期にかけて玄宗楊貴妃図が多数制作された背景には、先学の研究成果から「長恨歌」・「長恨歌伝」などの愛好のもと注釈本が制作されたことや玄宗楊貴妃の故事・逸話を集めた書籍の和刻本が版行されたことなどからもうかがい知ることができる(注1)。本稿では玄宗楊貴妃図が多数制作された背景について再検討を試みるために、玄宗楊貴妃の逸事・故事がどのような人々の間で愛好されていたか五山僧の詩などから、その実態を把握する。それとともに東京文化財研究所所蔵の売り立て目録調査報告により仇英筆とされた中国画が日本に数多く流入していた事実を加え、玄宗楊貴妃の逸事・故事が絵画化されるにあたり多数の中国画が参照された状況を物語る資料を整理し、玄宗楊貴妃図が日本ではどのような人々の周辺で愛好・制作されていたかを考察することを目的とする。第1章 玄宗楊貴妃の逸事故事愛好の動向1.五山僧らの玄宗楊貴妃の逸事故事愛好『翰林五鳳集』に収録された題画詩には玄宗楊貴妃を詠んだものが数多くみられる(注2)。だが、題画詩に関わらず五山僧らが玄宗楊貴妃の逸事・故事を理解し、それらを様々な詩の中に織り込んでいることがわかった。例えば、「鞨鼓催花図」の典拠である「鞨鼓催花」の逸事は非常に好まれていたようだ。この逸事は唐の南卓『鞨鼓録』に載るもので、鞨鼓を愛した玄宗が2月はじめ、禁裏の柳杏が咲こうとするのを見て「春好光」という曲目を作り鞨鼓を打つと、一斉に花が開花したという内容だ。皇帝(権力者)に春が呼びおこされる行為は非常に吉祥的な意味合いをもつものであるといえるだろう。『翰林五鳳集』の中には「春色先期紅會成。一時桃杏咲新正。入花和氣主人意。不借明皇鞨鼓聲。 初春紅會 仁如」といったものもある。仁如とは仁如集尭 (1483−1574)のことで、鞨鼓の音が春の訪れを告げるものだと理解し詩に詠んだ状況が窺える。また「長恨歌」で「連理の枝」と詠われた玄宗・楊貴妃の仲睦まじい様子は五山の題画詩では「連理竹」、「連理松」などといったモティーフを詠む詩にまで詠みこまれており、五山僧らが玄宗・楊貴妃の故事や逸事を深く理解し、それらに傾倒していた様子が推測される。― 46 ―⑤15−17世紀における玄宗楊貴妃図の諸問題─制作目的と中国画受容を中心に─
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