2.武家での玄宗楊貴妃の逸事故事愛好『太閤記』(注3)では豊臣秀吉が慶長3年(1598)に行った醍醐の花見で護花鈴をつけたとあり、花で戯れ遊ぶ風流陣のことも記録されている。「紅の糸をもつてたくましくうちたる綱を永く引はへ、鈴をあまた所につけ、花にあつまる鳥をおふ。」などしたようだ。醍醐の花見での盛況振りを書き連ねたあとに「思へば我朝のせばき国の興さへ、甚以おびただしき事共也。さぞ唐玄宗後宮の花軍に戯れし風流之陣、隋煬帝が宮女を集め、花に月に興ぜし夜遊之庭、おびただしき事になん有べし。」などとも記されている。天皇家、公家らが長い歴史にわたって典雅な宮廷遊戯を行ってきたことに対し、武家側が享楽的遊興に玄宗楊貴妃故事・逸事を後付けしたことで、武家での遊びをより高尚な趣味をもつ遊興に仕立て、自らの文化度の高さを示すものであったようにも思われる(注4)。武家らにとって、楊貴妃が傾国の美女というイメージで受け止められていないことは、武家女性の美しさを楊貴妃に喩えられた例からも窺える。織田信長の妹・細川昭元夫人像(京都府・龍安寺所蔵)には妙心寺第四十四世・月航宗津(?〜1586)による長文の賛があり、それによると容姿の美しさが楊貴妃に喩えられているのである。3.茶人・茶の湯の場での楊貴妃逸事故事愛好記録上、金地大画面の楊貴妃図屏風について言及されたものでは天正19年(1591)の千利休の遺書にある「やうきひ金ノ瓶風壱双」が古い例である(注5)。利休のような茶人にも楊貴妃図が愛好されていた。また茶人の間で「唐物」が愛好されたように楊貴妃にまつわる逸事をもつ品が記録上にみられる。『山上宗二記』「珠光一紙目録」で「茶碗の事」には「一 こんねん殿茶碗 青磁物である。楊貴妃のうがい茶碗という説あり。いかがか、疑わしいもの。堺、満田方にあり。口伝。」(注6)とあり、楊貴妃のうがい茶碗という説を疑わしいとしながらも、日本では唐物として珍重された例もある。この来歴の真偽はどうであれ、桃山期の茶文化の中に唐文化を象徴する存在の一つとして楊貴妃は愛好されていたようである。4.玄宗楊貴妃逸事故事愛好の変化玄宗・楊貴妃の絵画化は平安時代以来行われてきたものであるが(注7)、玄宗・楊貴妃の悲恋物語を鑑賞するためのものであったり(注8)政治的讒言を補うためのものであったりもした(注9)。楊貴妃は「長恨歌」愛好のもと、悲恋の物語のヒロイン像、ときには傾国の美女像となり、2つの顔をもつものであった。― 47 ―
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