「護花鈴図」「鞨鼓催花図」第2章 玄宗楊貴妃故事・逸事の絵画化と中国画受容しかし、室町期以降の五山僧の題画詩などに登場する玄宗楊貴妃故事・逸事は「長恨歌」などにはみられないものが増え、同時に玄宗楊貴妃図の画題も爆発的に拡大した(注10)。これは五山僧らが新たなる情報源を有していた証拠であると同時に、玄宗楊貴妃故事・逸事の多様な享受のもとで絵画化が行われたと推測する。故事・逸事への興味関心の高まりのもと行われた玄宗楊貴妃図の制作について、以下、題画詩の作者の没年を目安として玄宗楊貴妃画題の登場と現存作品の作風から玄宗楊貴妃画題の絵画作例を整理した。これにより玄宗楊貴妃故事・逸事については「護花鈴図」、「鞨鼓催花図」、「並笛図」、「風流陣図」、「明皇蝶幸図」の順で題画詩は登場し(注11)、それらの絵画化は室町時代末期以降の狩野派を中心に行われたことがわかる。なお、ここにあげた画題のうち、日中ともに存在した画題は「鞨鼓催花図」、「並笛図」で、日本にのみある画題が「護花鈴図」、「風流陣図」、「明皇蝶幸図」である。1.玄宗楊貴妃故事逸事の題画詩と絵画化玄宗楊貴妃画題で五山僧の題画詩において最も早い時期に確認されるのが「護花鈴図」で、詩を詠んだのは1371年頃に入明した子建浄業だ。子建浄業の「護花鈴図」の詩は突出して早くみられるもので、『翰林五鳳集』中、次に「護花鈴図」を詠んだのは1460年示寂した瑞岩龍惺の題画詩であり、その間の題画詩の例は見当たらない。管見では「護花鈴図」の絵画化は、16世紀の作例で奈良国立博物館所蔵「扇面画帖」(制作者として狩野元信、眞笑、松栄、永徳、雅楽介之信印等)のうちの「玄宗金鈴図」(図:狩野安信鑑「狩野雅楽介之信筆」、狩野之信:狩野元信弟生没年不詳、着讃:雪嶺永瑾(1447−1537))や16世紀の作例で南禅寺所蔵「扇面張交屏風」のうちの「護花鈴図」〔図1、2〕などの小画面の作例が制作時期の早いものとなる。大画面図の作例では岡山市普賢院所蔵で個性的な皺法を用いた狩野派絵師の作と考えられる「護花鈴図・並笛図屏風」やフリア美術館所蔵の狩野永徳作とされる「護花鈴図」などがある〔図3〕。子建から瑞岩の「護花鈴図」の題画詩が詠まれるまでの100年ほどの間に登場した画題で現存作品が多く残るのが「鞨鼓催花図」だ。詩を詠んだのは1425年示寂した顎― 48 ―
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