「明皇蝶幸図」2.玄宗楊貴妃逸事・故事の絵画化と中国画受容の調査から、「風流陣図」は明治・大正期の売り立て目録上で「花合戦図」と記され、呼称されていたことがわかった。「風流陣図」は呪術的な意味合いをもつものとして描かれたという指摘もあるが(注13)、多くの玄宗楊貴妃画題の典拠となった逸事を載せる『開元天宝遺事』に玄宗・楊貴妃やその他、仕女らの逸話に花と関わりがある逸事が頻出することや、時代は下るものの中国の妓女らの美しさを花にたとえた清代の「金陵百媚」などを例にみれば、美人と花との組み合わせの美しさと華やかさが何よりも鑑賞者の心を掴むものであったと考える。題画詩では1501年示寂蘭坡景苣のものが早くみられる。作例では南禅寺所蔵「扇面張交屏風」の例〔図12、13〕、MOA美術館所蔵「風流陣図・明皇蝶幸図」〔図14〕などが早い時期の作品だ。狩野派がこれらの画題の絵画化をリードしたことからは、当時狩野派に多数の障壁画類の制作を依頼していた織田信長、豊臣秀吉ら武家たちが玄宗楊貴妃図を鑑賞していた可能性を示すものである。また推論にすぎないが、玄宗は睿宗の第3子として洛陽に生まれ、三郎の愛称で親しまれ、五山の題画詩中では三郎と詠まれることもしばしば行われていた。偶然にも織田信長も通称を三郎といい、またその父、祖父も通称を三郎といった(注14)。この「三郎」の名の一致から、織田信長を玄宗にかさね、玄宗宮廷での風流韻事の逸事故事に親しみを深めることも行われたかもしれない。玄宗楊貴妃図を多数描いた狩野派には中国絵画を模写した狩野派模本や縮図などの存在から真筆・贋作を問わず多数の中国仕女図、中国宮廷風俗図などを目にしていたことが指摘されている(注15)。売り立て目録の調査からも一部をあたっても仇英をはじめ多数の中国画家作とされる宮廷風俗図が所蔵されていたことが明らかとなった(注16)。現時点では、狩野派模本や「探幽縮図」にみられる並笛の図様以外に玄宗楊貴妃図と合致する作例画像などは日中の絵画ともに管見にない。しかし、これはあくまで現在確認できる資料からいえることであって失われたものも多くあるはずだ。中国仕女図や中国宮廷風俗図の存在が日本における玄宗楊貴妃画題の拡大また日本独自の玄宗楊貴妃図制作の一翼を担うものであったと思われる。― 50 ―
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