第3章 狩野派と他派との絵画化における違い、狩野派内での絵画化の変化玄宗楊貴妃図の多くが狩野派の手になるものだが、長谷川派にも「玄宗楊貴妃図屏風」、「明皇楊貴妃図屏風」など数例、玄宗楊貴妃図が確認されている(注17)。しかし、これらは多くが寛永期の作であり、長谷川派が玄宗楊貴妃図に筆をふるった時期は狩野派よりも後発であること、また狩野派があらゆる玄宗楊貴妃画題を絵画化していたのに対し、長谷川派における玄宗楊貴妃画題は「並笛図」や明確な故事・逸事を絵画化したものではなく、玄宗楊貴妃人物画ともいえるようなものになっている点が特徴である。室町末から桃山時代にかけて狩野派が描いた故事・逸事に裏打ちされた玄宗楊貴妃図と異なる寛永期の長谷川派の単なる人物画的な玄宗楊貴妃図は玄宗楊貴妃画題、玄宗楊貴妃図に求められた役割や意味合いの変化を物語っている。長谷川派の作品が制作された寛永期は、京都や江戸の名所遊楽図、豪華な茶室を備えた邸内遊楽図が多く描かれた時代である。徳川幕府の安定した世に権力者たちが眺めたいものは異国風俗図よりも自らが支配している当世の現実的で身近な遊興図に関心が移っていったことを示しているのではないだろうか。また狩野派内での玄宗楊貴妃の絵画化にも変化が現れ始める。江戸初期の狩野派を代表する狩野探幽の時代になると、大名家の室礼の確立に伴い三幅対形式の中幅に楊貴妃が単独美人像として描かれる傾向も顕著になる。同様に中国の女性を描いた作例をあげると、三幅対形式の中幅に西王母を描いた作品は多数あるが、西王母の場合は桃の実などが描き添えられている図様などであることから、そこに描かれている女性が西王母であることを認識できる。しかし、楊貴妃図の場合は作品名に「楊貴妃」の名が記されていない限り、そこに描かれている女性が楊貴妃であることを明確に示すモティーフは乏しく、花を持つ立ち姿や腰をかけた姿で描かれることなどが多い。さらには左右幅にも楊貴妃を連想させる動植物が常に描かれているわけでもなく、結果的に楊貴妃は不特定多数の「唐美人像」に変容させられてしまうのである。三幅対形式で描かれた女性が楊貴妃であると明確に分かる形で鑑賞された事例では、大正7年12月9日に行われた松平子爵(主殿頭)家御蔵品入札(札主:山澄力蔵 於:東京美術倶楽部)目録に掲載された探幽「中玄宗皇帝左右雪村官女」の三幅対(注18)がある。中幅〔図15〕だけを取り上げると、楼閣内で玄宗と楊貴妃が並び座っており、仲睦まじく語らう男女の姿が描かれているにすぎない。そこには桃山期の大画面に描かれたような特定の宮廷風流韻事は描写されていない。また三幅対ではないが、玄宗と楊貴妃を描いた掛幅では大正7年12月16日に行われ― 51 ―
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