鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
62/537

注⑴秋山光和『平安時代世俗画の研究』吉川弘文館 1964年、家永三郎「初期世俗画としての唐絵」た当市荘司氏及某大家御蔵品書画器物展観入札(札元:加賀百萬堂 於:東京美術倶楽部)目録に掲載された探幽「元宗擁妃」〔図16〕や大正6年9月17日に行われた本荘子爵家並二某家所蔵品入札(札元:川部利吉 於:東京美術倶楽部)の目録に掲載された狩野周信「明皇擁妃」〔図17〕などがある(注19)。玄宗は団扇を手にし、着物を着崩し上半身を露わにし、隣で横になりながら本を読む楊貴妃の肩に腕をまわしている図様はなまめかしい表現である。このような、なまめかしい玄宗楊貴妃図は18世紀以降に単なる美人像としての唐美人図が多数制作されることを予測させるものである。以上のように同じ狩野派であっても三幅対の場合、画面形式上、大画面に描かれたような玄宗楊貴妃の故事・逸事を伴う図様ではなくなる。また楊貴妃単身で描かれる場合はまるで軸の中におさめられた人形のようにおとなしく描かれるが、玄宗とのペアで描かれる際の楊貴妃は寵姫として描かれるといった明確な違いがあることを指摘する。おわりに玄宗楊貴妃図は五山禅僧、新興武家らにとって文化的な権威付けに必要とされたことを示唆した。為政者、権力者のもとで絵画制作を行った狩野派が玄宗楊貴妃図制作を引き受けていたと同時に、権力者が入手した中国絵画に触れ、制作にあたったであろうことは想像にかたくない。また寛永期を中心とした鑑賞者の玄宗楊貴妃画題への興味関心の移り変わりなども玄宗楊貴妃図の絵画表現と画題選択において新たな展開の胎動を告げるものであり、15−17世紀の玄宗楊貴妃図制作が後の玄宗楊貴妃図制作への道筋をつける重要な時期であったといえるだろう。『上代倭絵全史』墨水書房 1966年、武田恒夫「玄宗皇帝絵」『国華』1049号 朝日新聞社1982年、辻惟雄「洛中洛外図と唐美人図 日中比較美術史の視点からの二題」『国際交流美術史研究会 第四回シンポジアム 東洋美術における風俗表現』国際交流美術史研究会 1986年、榊原悟「長恨歌絵について」『国文学解釈と感想』別冊63号 至文堂 1988年、榊原悟「長恨歌絵のこと」『秘蔵日本美術大観5チェスター・ビーティー・ライブラリー』講談社 1993年、岩山泰三「五山詩における楊貴妃像─題画詩と『後素集』」『国文学研究』131号 早稲田大学文学国文学会2001年、池田麻利子「日本における玄宗楊貴妃図─近世初期の画題と図様─」『美術史研究』41号、早稲田大学美術史学会 2003年⑵拙稿「玄宗・楊貴妃画題の受容と新展開─室町末から江戸初期を中心に─」『「仕女図」か■■― 52 ―

元のページ  ../index.html#62

このブックを見る