研 究 者:茨城県陶芸美術館 副主任学芸員 花 井 久 穂日本各地で古窯趾の発掘が進んだ昭和戦前期、日本の陶芸家達は、多くの古陶磁を実見することが可能になった。日本のみならず中国においても、鉄道の敷設を機に偶然、遺跡が見つかるなど、陶磁史上の「発見」が相次ぎ、唐三彩や宋磁などの多くの出土品が日本に渡っている。西欧の研究者たちによる中国の古窯趾調査や、豪華版の名品図録の刊行など、陶磁研究の情報が世界的に広がり、グローバルな陶磁史が形成されつつあった。また大正から昭和初期にかけては、茶道具としての評価に代わるものとして中国陶磁を中心とした「鑑賞陶磁」の分野が新たに生まれた時代である。中国古陶磁の蒐集熱が高まり、大陸からの出土品が数多く日本にも渡っており、中国古陶磁は日本のやきものの源流としてより大きな存在感を持つようになった。こうした陶磁史形成期にあって、陶芸家もそれらの動向に無関係ではなく新知見を共有し、コレクターや研究者らと近しい関係の中で制作の動機が育まれていったと考える。しかし、近代の陶芸家達が古陶磁に影響を受けて制作されたと指摘される作品は残るものの、実際に彼らが一体どこで古陶磁を見たのか、どの作品を見たのか、という追跡は未だなされていないのが現状である。本稿では、日本の陶芸家がこの時代にどのような古陶磁を見ることが可能であったか、そしてそれらの古陶磁をどのように見たかということを、実際の作品を可能な限り特定しながら、その後の陶芸家の作品と比較分析する。1 昭和前期における古陶磁鑑賞の状況 ─「発掘」と「出版」「展覧会」大正から昭和戦前期にかけて、古陶磁鑑賞の状況にあらわれた最も大きな変化は、一般の陶磁愛好家たちによる古陶磁の「発掘」といえるだろう。その最も象徴的な例としては、昭和5年(1930)頃から本格的に始まった古舘九一・金原京一ら陶磁愛好家による唐津古窯趾の発掘が挙げられる〔図1〕。その成果は展覧会という形で公開され、それに伴って〔図2〕のような古窯趾地図が相次いで刊行されている。昭和6年3月(1931)に創刊された『茶わん』は、九州の古窯趾発掘をきっかけに生まれた雑誌である。東京日々新聞社長の本山彦一による九州古窯趾の発掘成果を発表する展覧会が、3日間で5千人も動員する盛況ぶりだったことから、この雑誌の創刊が決まった(注1)。『茶わん』は、一般愛好家向けという大衆性を持ちつつも、「発掘」と― 66 ―⑦近代日本の陶芸家と古陶磁─昭和戦前期における受容と研究の状況から─
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