鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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いう先進的な研究方法を扱うメディアとして、全国の愛好家たちのネットワーク形成にも貢献していくことになる。昭和13年(1938)に大阪の長堀高島屋で行われた「九州唐津・薩摩・上野・高取古陶磁展覧会」の例のように、伝世品ではなく、古窯趾発掘の成果を集めた「一般愛陶家」向けの展覧会が当時、販売を伴う百貨店を舞台に盛んに開かれるようになった。「愛陶」という言葉が雑誌や出版物にあらわれ、爆発的に使われるようになったのは、おそらくこの昭和5年頃から10年代(1930〜1944)にかけてのことではないだろうか。この展覧会図録には「九州陶磁の生みの親である朝鮮古陶磁の優秀品約百點も同時に陳列」とあり、陶磁器が単なる愛玩の対象ではなく、国を越えた技術の伝播という、歴史的な背景を持つものだという視点も加えられており、当時の愛好家たちの古陶磁受容のあり方を示している。「発掘」が陶芸家の制作の動機付けになった最も有名な例は、昭和5年(1930)の荒川豊藏による「志野筍絵陶片」の発見である。それまで瀬戸産と考えられていた志野が、実は美濃で焼かれたものだったということが、小さな陶片から明らかになったというニュースは、産地発見に対する陶片の有効性を鮮やかに印象づけるものであり、陶磁史上の大発見として全国の古窯趾発掘ブームの先駆けとなった。発見当時、未だ陶芸家ではなかった豊蔵は、この「陶片発見」をきっかけに本格的な作陶の道へと入っていくことになる。「発掘」による作陶技術の解明を主軸にした制作は「桃山復興」の動きへと繋がっていった(注2)。2 「鑑賞陶磁」と陶芸家では、中国陶磁や色絵磁器をはじめとする、いわゆる「鑑賞陶磁」分野の登場は近代の陶芸家たちの制作にどのような影響を与えたのだろうか。この時代、日本の陶芸家たちは一体どのような古陶磁を見ることが可能であったか、そしてそれらの古陶磁をどのように見たか。鑑賞と研究・出版など、当時の陶芸家たちが目にしていた状況を可能な限り復元しつつ、二人の陶芸家の作品を見ていくこととする。⑴富本憲吉と九谷「模様から模様を造る可からず」は、日本の近代陶芸のパイオニアとして、つとに有名な富本憲吉の言葉であるが、意外にも富本憲吉の著述のなかには、古陶磁について触れている文章が多く、それらの古陶磁に対して率直な愛情や、深い敬意が感じられる(注3)。また当時、高価なホブソンの東洋陶磁の図録を見たいがために、東京― 67 ―

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