に来た折には、わざわざ「丸善という札所に必ず参詣」することになっていたというから、その古陶磁への傾倒具合を窺い知ることができる(注4)。その一方で、古陶磁に対する富本自身の制作についての葛藤も、かなりの分量で綴られている。私は宋窯を見、特に明朝や李朝の染附に人一倍心引かれた。然しそれらの模造や消化し切らぬ繰り返しでは満足出来ず、どうしてそれからはなれるか、記憶にある古陶器を振りすてて、自分だけの道につくべきかといふことに、ありたけの力を尽くしてゐる。(注5) そこには、近代作家としての苛烈なまでの自意識と苦悩が見受けられるが、「高価なホブソンの東洋陶磁の図録」、「宋窯」、「明朝や李朝」といった語が頻繁に登場する富本の叙述は、様々な古陶磁が新たに出現し、活発に陶磁史の形成が始まった当時の状況を如実に示している。「古典」との葛藤、つまり富本の苦悩とは、陶磁史研究の進展によってもたらされた、すぐれて近代的な状況が生みだしたものであるのだ。しかし苦悩の中、富本は伝統ある窯への旅を通じてそれぞれの土地に存在する美や優れた技術を見出し、自らの制作の滋養としている。富本憲吉が九谷へ行くことを決めたのは、昭和初期から取り組み始めた色絵の技術を研究するためであった。滞在先の北出塔次郎の息子である北出不二雄は、その理由を色絵の剥落にあった、と漆芸家の松田権六から聞いている(注6)。富本は、昭和11年(1936)5月から10月の5ヶ月間の滞在を始まりに、終戦直後(昭和16年(1941)10月、昭和18年(1943)6月、昭和21年(1946)1月)まで4度、九谷を行き来している。富本自身、色絵の具の剥がれを防ぐための九谷の技術的な工夫について述べている。(以下、引用)広い面積についた「タマグスリ」ははがれ易い それを防ぐため黒点を打つ 丸紋の地にある黒点はその例である 初めて九谷又は支那で此の方法を発見した者は漆の梨地等から工夫したと思ふ(注7)これは後年、昭和37年(1962)の自選集の中の自作〔図3〕に寄せた言葉であるが、陶筥の上部、黄色の釉の中に描いた黒い点描について、これは九谷あるいは中国古来の技術であると述べている。黒点は釉の中の地文様であると同時に、剥がれやすい釉薬(「タマグスリ」)の剥落を留める機能があるという。これは江戸時代、九谷の― 68 ―
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