鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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吉田屋窯で製産された「青手」タイプの作品で良く用いられてきた手法であった。九谷滞在の昭和16年に制作された富本の「色絵椿模様飾筥」〔図4〕にもこの黄釉に黒点が用いられているが、江戸後期に作られた吉田屋窯「牡丹図四方台鉢」〔図5〕にみられるような、九谷の色絵技術と意匠に肉薄しているのが分かる。富本が九谷に滞在した昭和戦前期は、九谷の陶磁史研究や出版活動が隆盛した時期にあたる。石川県小松市出身の松本佐太郎が著した『九谷陶磁史考草』は、昭和3年に地元九谷の研究団体「古九谷研究会」から刊行されている。作品図版はなく、印銘が主の本である。唯一の作品図版といえるのが表紙の飾壺〔図6〕で、「明治陶界の名匠 松雲堂 松本佐平作」とある。いわゆる明治の輸出九谷である。松本佐平は、著者の松本佐太郎の父で、明治の輸出陶磁全盛期に活躍した人物である。翌年の昭和4年(1929)に刊行されたのが『九谷陶磁史鑑』〔図7〕であり、同じく古九谷研究会発行、松本佐太郎が著者である。モノクロの図版が付いており、所蔵が記されている。石川県内の各「九谷」地域の所蔵家、また東京や京都・大阪・名古屋など大都市圏の各博物館・美術学校・国立陶磁器試験所などの他、前田家など所蔵家の作品が掲載されている。松本佐太郎は「九谷焼」の範囲を金澤・能美(小松・寺井)・江沼とし、図版も明治時代の赤絵金彩まで掲載している。こうした刊行物において、図版が重要と考えるのはその当時、一般の人々の目に触れることができる作品がどれだけあったのか、そしてそれらはどのようなものであったかを測るバロメーターだからである。その土地のやきもののビジュアルイメージが、その時代においてどのように共有されていたかということを知りうる手段でもあるからだ。そうした意味で、特に注目したいのが昭和11年(1936)11月に学芸書院から刊行された宮本謙吾の『九谷焼研究』である〔図8〕。この年は、富本憲吉が5月から10月にかけて九谷に滞在した年にあたる。この『九谷焼研究』がきわだっているのが、カラー図版の豊富さと作品個々に付けられた解説である。作品の裏まで図版が付いており、おそらくこの時期に出た最もビジュアルな九谷焼の普及本といってもよいだろう。作品の所蔵先は、東京と名古屋の他、圧倒的に大聖寺が占める割合が多い。掲載作品の所蔵先が大聖寺に多いのは、「九谷焼」を大聖寺・山代の江沼郡産のやきものに限定する宮本の主張に沿った選択だからであろう。掲載された作品のタイプもほぼ「五彩古九谷」が占めている。宮本は、前述の松本佐太郎の「九谷陶磁史」に対して、松本の出生地である能美郡小松を九谷焼の中心に論じているとして、手厳しく批判している。昭和前期に九谷の陶磁研究書の出版が相次いだ背景には、小松(能美)か江沼か、「九谷」産地の正統を問う論争があった。― 69 ―

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