さて、この宮本謙吾の『九谷焼研究』が出版された昭和11年(1936)は、富本憲吉が5月から10月にかけて九谷・山代の北出塔次郎の窯に滞在した年にあたる。富本憲吉と宮本謙吾には、意外な接点がある。富本の九谷行きの約2ヶ月前の昭和11年(1936)3月に出版された雄山閣の『陶器講座』である。この第9巻で、富本憲吉と宮本は同じ号に寄稿している。富本の見開き隣の頁から宮本謙吾の「九谷焼」の論考が掲載されている。これから九谷へ行く富本が、自らの寄稿と同じ号に掲載された宮本謙吾の「九谷焼」を目にしたということは充分に考えられるし、また、ホブソンの図録を見るために「丸善詣で」をしていたという富本ならば、九谷から戻った直後に刊行された同じ筆者の『九谷焼研究』を目にしていた可能性はないとはいいきれない。富本が『九谷焼研究』を目にしていたかもしれないという仮定でこの本を見ていくと、一点注目したい図版がある〔図9〕。いわゆる祥瑞手に分類される平鉢で、大聖寺の岡村四郎の所蔵と記されている。岡本家は、江戸末の大聖寺藩士で、文人であった岡本鶴汀(1792−1867)を輩出した家である(注8)。この平鉢は現存しており、「色絵捻文丸文繋皿」として昭和50年に愛知県陶磁資料館のコレクションに加わっている〔図10〕(注9)。この平鉢は、見込み中央の七角形の枠内に七宝繋・格子・青海波の4種の地文をらせん状に捻って配置し、外縁部の丸文の中には宝尽くしの吉祥文を描いているが、富本は九谷を行き来していた時期に、この丸文と捻文を再構成したような作品を制作している。「色絵円に花模様飾筥」(昭和16年(1941)、奈良県立美術館蔵)〔図11〕はランダムな大きさに配置した円の中に、伝統的な吉祥文ではなく、ダリヤやカーネーションといった、当時日本のやきものの模様としては珍しかった洋花を描いている。昭和15年頃から富本は、洋花を色絵で扱ってみたいと考え、毎夜懸命に写生をしていたという(注10)。もう一点、「色絵四弁花更紗模様六角飾筥」(昭和20年(1945)、奈良県立美術館蔵)〔図12〕も古九谷の「色絵捻文丸文繋皿」と同様、中央から捻って旋回する文様構成をとっているが、富本はこちらも伝統模様ではなく、自然の草花の写生をもとに形を整理し、規則性を与えてオリジナルの連続模様を作り出した。富本を代表するこの四弁花模様は、2度目の九谷行きとなる昭和16年(1941)頃に完成した模様であった。富本は「広い釉薬面に黒点を打つ」というような地文様の手法に関しては、「技術」と捉えて、比較的素直な形で取り入れているように見える。しかし伝統的な文様の構成秩序に学ぶことはあっても、自然写生によって題材を自ら選び取ること、それを元■■■■― 70 ―
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