に新たな模様を生みだすことに関しては、強い意志が働いたようだ。やきものの技術には、釉薬の溶ける温度など、最適解というものがあり、先人達の知恵に与る部分が多い。近代の作家がそれをどのように受け入れ、いかに乗り越えようとしたか。富本が古陶磁から得たもの、そして「模様から模様を造る可からず」という言葉の内にある葛藤―何を見てきたか、何を写さなかったか―から目をそらすことなく、具に作品を見ていくことが重要ではないだろうか。そこに作家が試みようとした挑戦を読み解く鍵が潜んでいると考える。⑵石黒宗麿と磁州窯昭和15年(1940)頃の石黒宗麿の作品には、魚を描いた磁州窯風のものがある。型作りによる扁壺は現在、東京国立近代美術館〔図13〕と射水市新湊博物館に所蔵されているのが知られている。かねてより、この魚の作品は磁州窯の影響を受けているという指摘がなされてきたが、宗麿はこの本歌となる磁州窯の作品を一体どこで見ることができたか、どの作品を見たのかという追跡は未だなされていない。日本における宋磁鑑賞ブームは、中国陶磁史上の大発見のひとつに挙げられる鉅鹿の発掘を契機に始まっている。河北省南部の鉅鹿の町で1920年頃、北宋時代に水没した遺跡が発見されたことを機に、絵高麗などをはじめとする大量の磁州窯系の陶磁器が発掘され、かなりの量の出土品が欧米や日本に将来されている。久志卓眞によると、宋磁というものが、日本で意識され始めたのは昭和の初め頃という。最も早い時期の展観は、昭和4年(1929)7月23日から28日に日本橋三越で開催され、図録『宋瓷』(壺中居内陶話会編)が発行されている。茶陶一辺倒の陶磁愛好家を驚かせたのは痛快であった。われわれは嘗ってこの世に見なかった目の奇蹟を感得せられ、日本の茶陶とは遥か縁遠い、造形的な新鮮な陶磁器を親しく目にしたのであった。これはモダーンの極致でもあって、日本の近世の江戸趣味の陶磁などに慣れていたわれわれには想像できない破格の感覚の躍動するものであった(注11)「造形的な新鮮な陶磁器」「モダーンの極致」と久志が述懐するように、この「宋瓷」展は、日本の愛陶家たちの目に非常に新鮮な驚きをもって迎えられたようだ。白化粧の地に黒絵で魚を描き、掻き落としを施した磁州窯の作品で日本に渡ってきたと知られているものは少なく、その中でも宗麿の描いた魚にごく近いのは、出光美― 71 ―
元のページ ../index.html#81