一月九日消印の封書、癸未(昭和十八年)東京市中野区宮園通三ノ三四、小山冨士夫宛一月九日付、京都市外八瀬村、石黒宗麿術館所蔵〔図14〕と個人蔵〔図15〕の2点のみが知られている。宗麿が見た「魚」は、この2点に絞られる可能性が高い。昭和10年代の文献をあたったところ、昭和18年(1943)7月5日に聚樂社から刊行された小山冨士夫の初の著書『宋磁』のなかに、この「魚」の本歌と思われる作品の写真が収録されていることが分かった〔図16〕。魚の掻き落としの線や、二筋の釉の流下の位置から、掲載されているこの作品が出光美術館所蔵ではなく、個人蔵のものと同一作品ということが分かる。目次には、「第四六図 磁州窯白地魚藻鐵繪文深鉢 京都 野田奏五郎」とあり、この作品が、昭和18年(1943)の時点では、京都の野田奏五郎という人物のもとに所蔵されていたことが記されている。この『宋磁』は、奥田誠一の還暦祝いに献呈されたもので、コロタイプ図版の撮影は坂本万七、五百冊限定の豪華本であり、小山の宋磁研究の集大成といえる。小山は、石黒宗麿が昭和2年(1927)に京都・蛇ヶ谷へ移住した際の隣人である。当時は、同じく陶芸家の道を目指しており、その後、陶磁研究者へ転身してからも、石黒とは生涯を通じた親しい友人であった。盟友である小山が著した『宋磁』を宗麿が読み、感激したことは、昭和18年(1943)7月の小山宛の書簡に記されている(注12)。『宋磁』の著者である小山を通じて、宗麿がこの作品を実見した可能性は考えられる。所蔵者の野田奏五郎という人物と宗麿の接点を探ったところ、宗麿の書簡集の中に、この野田が2度登場することが分かった。十月二十九日消印の封書、昭和十六年と推定三重県白子町、長谷川忠夫宛 十月二十九日付、京都市外八瀬村、石黒宗麿「去る二十一日より小山氏滞在 二十三日より二十五日迄京大に於て 文部省主催芸術学会の講演を終り 二十五日午后より大阪綿業開館に於て野田奏五郎氏主催愛陶家懇談会(主として宋瓷の聚集家二十数名) 之は大阪実業界の腕キゝ連)其席上拙作二三点持参して照介(注・紹介) 一同をウナラせ 其中に山本発次郎氏通称(山発さん)是非石黒氏メンドウを見させて呉れとの申込あり 近日拙宅を訪問するから 其旨石黒氏に伝へて置いて呉れと懇二頼まれて来た(後略)」(注13)― 72 ―
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