鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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「(…前略) 六日夜一乗寺に野田奏五郎を訪ねました この人も実ニいゝ人だ 二月末か三月初旬窯をたく時ニ 是非知らせて呉とのことであった」(注14)『石黒宗麿書簡集第二集』に収録された人物解説(注15)によれば、野田奏五郎(1889−1971)は、京都市左京区一乗寺竹内町在住の実業家で神戸YMCA第三代理事長で、三井物産に勤務後、野田興業、エタニットパイプ工業、西部工業などを創設した人物とのことである。宗麿の書簡には、昭和16年頃に小山が、野田氏主催の愛陶家懇談会に出席し、宗麿の作品を持参して、その席上で紹介していること、また昭和18年には、京都一乗寺の野田宅を宗麿が訪ねたことが記されている。野田が非常に宗麿に好意的で、窯焚きの日について尋ねていることからも、宗麿自身の作品にも興味を持っていたと思われる。宗麿と野田奏五郎との間に面識があったことは事実で、宗麿が野田所蔵の磁州窯の「魚」を実際に見たという可能性は十分考えられるのではないだろうか。非常に興味深いことに、宗麿はこの本歌をそのまま「写し」てはおらず、意識的に器形を変えている。薄くロクロ挽きされた、端正な美しさを漂わせる宋磁に対して、宗麿はあえて器形を型作りの扁壺にし、器の中には黒釉を施している。腰から高台が露胎になっている本歌に対し、宗麿は口縁部を露胎で残す。藻の描写も省き、ゆったりと器の水面を泳ぐ宗麿の魚は、戦後の宗麿作品にあらわれる、より自由な筆致〔図17〕へとつながっていくように思われる。3 「鑑賞陶磁」コレクターの文化層 ─日本画家とモティーフとしての古陶磁昭和四年の『宋瓷』展図録、昭和18年(1943)の小山冨士夫の『宋磁』の所蔵者を調べて気付いたことがある。鑑賞陶磁の収集家には、実業家や医師、弁護士の他に、建築家、画家、小説家など、実に多彩な顔ぶれが揃っている。その中でも、とりわけ日本画家の一群は、ある種の存在感を放っている。名前の一例を挙げると廣島晃甫、山村耕花、安田靫彦、横山大観、長野草風、小林古径ら、当時の画壇で第一線で活躍した画家が多い。彼らが集めた鑑賞陶器が興味深いのは、しばしば自らが描く画のモティーフとなって表れてくるからである。モティーフとしての鑑賞陶磁ということに着目して、彼ら日本画家たちの制作を調べてみると、意外にも戦前期にはそれほど描かれていない。戦前までの日本画の画題は、歴史画や花鳥風月が多く、画家の画室などの身近な日常が静物画として描かれるのは戦後になってからが圧倒的だからだろうか。歴史画の背― 73 ―

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