鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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景となる「道具立て」として配置されることはあるが、陶磁器そのものを描写した構図は戦後、1950年代に入って急増する。戦前期の数少ない例としては、大正10年(1921)周辺に描かれた速水御舟の「京の舞妓」(大正9年(1920)8月 東京国立博物館蔵)〔図18〕・「鍋島の皿に柘榴」(大正10年(1921)10月)〔図19〕が挙げられる。御舟がデューラーの細密画法を日本画に取り入れ、新たな写実様式を切り開いた時期であり、磁器の硬質で、光沢のある質感は、画家にとってその技量が試される刺激的なモティーフだったに違いないが、描かれたのが古九谷の赤絵の壺と鍋島という、まさに彩壺会の会員らによって見出された日本の「鑑賞陶磁」であったことは興味深い。しかも「京の舞妓」の背景に描かれた赤絵の壺は、彩壺会の創立メンバーであった中條精十郎の所蔵であり、大正6年(1914)2月に刊行された『名品集陶磁器百選第一輯』所収の図版写真から描写されたものであることが古田亮ら日本画研究者によって指摘されている。さらには、壺の部分は作品が一度完成後、院展出品までの間に、御舟自身の手によってわざわざ書き加えられたことが、平成4〜5年(1992−1993)に行われた全面修復を契機に明らかになっている(注16)。「鍋島の皿に柘榴」に描かれた皿には、あるエピソードが残っている。御舟は義弟にあたる北原氏に自慢の陶磁器を見せるため、箪笥を空にして居間に運び、その上に飾った。空になった引き出しに子どもを入れて来客を驚かせようとしたところ、箪笥が倒れ、この皿が割れてしまったという話である(注17)。この北原氏とは、御舟の実妹の夫で、帝室博物館の陶磁器主任の北原大輔のことである。御舟は「鑑賞陶磁」という、大正期に新たに現れた美の分野にいち早く触れることのできた画家であり、彼の描いた「鑑賞陶磁」は単なる道具立ての器物という以上に、新たな審美眼や歴史観を象徴するモティーフだったのではないだろうか。おそらく御舟にとっては、磁器の質感を写実的に表現するのに、どのやきものでも良かったわけではないだろう。「京の舞妓」完成後にわざわざ古九谷の壺を加筆したのも、この「鑑賞陶磁」が象徴する新しき美に積極的な意味を見出していたと考えられる。戦後に入ると、鑑賞陶磁を描いた画が急増するが、戦後、日本陶磁協会の発行する「陶説」の題字をそれぞれ揮毫し、陶磁器コレクターとしても名高い安田靫彦、小林古径も陶磁器を数多く描いている。古径の描いた「壺」(昭和25年(1950) 茨城県近代美術館蔵)は、松永耳庵旧蔵の重要文化財「五彩魚藻文壺」(明時代 16世紀 福岡市美術館蔵)である。この重要文化財の「五彩魚藻文壺」は、絵画で「写生」されるのみならず、陶磁器でも「写し」が制作された。加藤土師萌が昭和27年の第2回日― 74 ―

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