鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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む姿で描かれる点であり、ここにms. 3717との近親性を看取できる。ms. 3717の画家が、ベリー公ジャンを曾祖父に持つ公の豊富な蔵書に着想源を求めた可能性は十分考えられ、この作品が直接の源泉でないとしても、公の宮廷の芸術環境にこれに類似する図像ストックが存在した可能性は高いと言えるだろう。その上でここで喚起したいことは、ms. 3717の女性像は、ボッカッチョ写本のような女性の貞節や美徳を象徴するコンテキストからは切り離されている点であり、図像の性質上で接近するのはむしろ、15世紀末に制作された『時禱書』(パリ、フランス国立図書館ms. lat. 1173, f. 1v)の月暦図「2月」〔図10〕に代表される、糸車を回し日々の労働に精を出す女性像であると考えられる(注20)。ms. 3717のもう1つの独創的な挿絵である猪を火で炙る図像に関しても、公の蔵書に類似図像を見出すことはできなかったが、やはり月暦図に類縁性が認められる作例を指摘し得る。月暦図で描かれるのは正確には猪でなく豚の毛を炙る場面であるが、管見の限りではこの図像は1325年頃制作の詩篇の「11月」〔図11〕に最初に認められる。注視すべきは、この作例で豚を焼く人物の身振り、片手に棒を持ち、もう一方の手の平を顔の位置まで上げるポーズが、ms. 3717の猪を炙る人物〔図12〕にも見られる点であり、ms. 3717の図像の背後に古い月暦図の伝統が横たわっていることを示唆していると考えられる。ただ、月暦図でこの場面が多く描かれるようになるのは、森氏やマーヌが詳細に作例を挙げたように(注21)、15世紀末から16世紀にかけてのフランス、フランドルにおいてである。後にはブリューゲルの《冬中の狩人》にも見出されるが、それ以前の作例として森氏が挙げた1つが1470−90年頃にブリュージュで制作された時禱書(ドレスデン、ザクセン州立図書館A311, f. 12v)の「12月」〔図13〕であり、1人の男性が中庭で豚の毛焼きをし、もう1人がその肢体をナイフで切断している。フランスの作例として新たに提示したいのは15世紀末制作の時禱書(シャロン=アン=シャンパーニュ市立図書館ms. 28, f. 8v)であり〔図14〕、欄外の小さな枠内で男性が豚の毛焼きをする姿が認められる(注22)。ms. 3717は、月暦図の本来の形式である単独人物像としてでなく、他の人物を伴う環境の中で表される点で、フランドルの作例により接近すると言えるだろう。この他の例も含め、毛焼き場面を描く図像は、先行研究と共に筆者が調査した限りでは、ms. 3717より僅かに後の月暦図に多く見出されるようになる図像である。よってms. 3717の図像は、厳密には豚ではなく猪であるが(注23)、ちょうどこの図像がフランス、フランドルで増加してゆく時期に並行、あるいはやや先んじて現れたと言えるのである。― 83 ―

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