鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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注⑴ 野澤鉚三、越川文之助『製図彩色水絵具誌』中西屋書店,1898年。⑵ 青木茂編『明治洋画史料』中央公論美術出版,1986年。⑶ 賀集三平編『東京営業員録』1894年に、「石版油画水彩用及染料薬品類村田」として、村田宗の実態について明快に語られることが少ない。しかし、実際には、新技法の流入に伴う色材の需要に応えるための工夫や、色材の流入増加と「洋風」の色の一般への滲透、原色や混色について理解するための色彩学・色彩教育の整理と発展、という背景があったことが、本論によって整理された。欧米においても発展段階にあった色彩学や色彩理論が積極的に受け入れられ、日本国内でも急速に発展したことは、色彩に関する数々の書籍の刊行と、美術教育の場において積極的にそれらの文献が参照されている点からも明らかである。色彩学的知識は、和洋を問わず芸術制作の場をも変容させ、さらなる色材・色名の増加に繋がった。色材・色名増加の様相と教育の場における色彩学の展開にあたって、本稿では触れられなかった、合成染料の製造等に関する工業的な背景や、日本画の絵具製造と販売の様相等については、今後の課題として研究を続け、稿を改めてまとめたい。1981年,pp. 64−85。−152における板谷波山の回顧に、上原、白浜についての記載あり。清の名前がある。⑷ 森口多里『明治・大正の洋画』東京堂,1941年。⑸ 東京国立文化財研究所美術部『明治美術基礎資料集』内国勧業博覧会・内国絵画共進会(第1・2回)編,1975年。⑹ 荒井経、二宮修治「狩野芳崖遺品顔料の分析調査報告」『東京学芸大学紀要』Vol. 56,2004年10月,pp. 33−41。狩野芳崖の遺品には、合成染料の絵具が多数残されていることが報告される。⑺ 『上野得應軒定価表─昭和十四年九月十八日現在』1939年。上野得應軒宮内氏には、絵具調査にあたり多大のご協力を得た。ここに記して感謝を申し上げる。⑻ 熊本高工「三原色説の研究」『女子美術大学研究紀要』4,1973年3月,pp. 97−122。⑼ 緒方康二「日本近代色彩学史ノート─明治以降戦前までの色彩文献書誌─」『夙川学院短期大学研究紀要』9,1984年12月,pp. 31−54。⑽ 家原政紀、塩津貫一郎『学校必用色図問答』玉文堂,1880年。⑾ 緒方康二「明治とデザイン─色彩教育としての色図─」『夙川学院短期大学研究紀要』6,⑿ 前掲書注⑾,緒方「明治とデザイン」,p. 80。⒀ 当該事項については、東京芸術大学名誉教授であり、同大学で色彩学の講義を担当された小町谷朝生氏よりご教示を得た。ただし、具体的な記録は確認できていない。⒁ 東京美術学校校友会『美術学校卒業生名簿』の1928年版にて確認。⒂ 東京芸術大学百年史刊行委員会『東京芸術大学百年史』第一巻,ぎょうせい,1987年,pp. 146⒃ 川上元郎「わが国におけるマンセル表色系に関する研究小史」『照明学会雑誌』第56巻3号,― 89 ―

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