点は南北朝期の例としては珍しく、いわゆる舞楽段の先駆をなす表現として注目される。一方、画面下部を一文字に横切る水路状の蓮池は、蓮華化生の描写にそれほど重点を置かない点を含め、220窟壁画にみる蓮池の形状とはかけ離れている。また、麦積山127窟壁画の全体的な構図の特徴は、四川省の成都萬仏寺址出土双菩薩像背面浮彫との共通性が指摘されている(注3)。これら作例には、遠近法を用いた俯瞰性の強い構図が共通しているが、萬仏寺の例では仏菩薩の姿は極めて小さく、教主たる阿弥陀如来の尊形を描こうとする意識が看取されない点が特徴的である。なお、これら作例の成立地、すなわち成都と甘粛地域はともに中央アジアに接して互いに行き来もある点、四川地域は梁の太清三年(549)には西魏に併呑される点などを考えあわせると、こうした共通点のある阿弥陀浄土図の古例が西側の地域に相次いで遺されていることは興味深い(注4)。南北朝期における阿弥陀浄土図の一つの傾向として踏まえておくべきであろう。いま一つ、220窟壁画の源流を探るうえで踏まえるべき作例は、河北省南響堂山石窟第2窟窟門裏上部の浮彫(北斉天統元年(565)頃成立)〔図3〕であろう。画面の左右に立つ楼閣、空より雲の尾を引くように美しく天衣をたなびかせながら飛来する天人、蓮華上に坐す阿弥陀三尊と、目前の宝池に次々と生ずる蓮華化生の者たち、と言った要素と構図は後に繋がるもので、220窟壁画に相通じるものと言える。ただし、阿弥陀三尊自身が坐すのは蓮池上でない、という点は異なっている。なお、これらの作例とは画面構成の明らかに異なる阿弥陀浄土図も同時期には生み出されている。例えば河南省安陽市小南海石窟西壁浮彫(北斉天保六年(555)成立)〔図4〕は、すでに指摘されるように、明確に九品往生図が描かれた例として最初期のものである(注5)。仏三尊と供養者像が刻まれた窟西壁の上部に州浜状の岸線が表されることから、阿弥陀三尊は池中に立つことが分かる。三尊の背後となる池中からは蓮茎が真っ直ぐに伸び、蓮華上には九品往生の人物たちが配置され、傍題が付される。220窟壁画でもやはり明確に九品往生の表現がなされており、小南海石窟の例はそれに先行する例である。ただ、池の形や、蓮茎の形状、三尊像を含めた全体の構図などは大きく異なっている。また、隋代の例として知られる莫高窟第393窟西壁画〔図5〕を見ると、不整形の宝池に諸尊が居す点なども含め、全体的な構図は、小南海のものと類似する。また、阿弥陀三尊の間を縫うように、一回り小さい仏三尊像が4組描かれるが、220窟壁画にも宝池外四隅に立つ仏菩薩の像が描かれており、これと同様の図像と考えられる。唐代浄土変に通じる人工的な景観表現や、これらの自然景に近い表現が混在するこの時期は、阿弥陀浄土の景観に対するイメージがいまだ定― 95 ―
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