鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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されている点は共通する。当時阿弥陀の瑞像として知られていた阿弥陀仏五十菩薩の図様を、浄土変を描く際のモチーフとして借りた、ということは十分考えられよう(注10)。220窟壁画の宝池中に居す菩薩・化生往生者たちの数が52体、一回り大きく描かれる観音勢至両菩薩を除くと、ちょうど50体を数えることも、原図の影響を示すものと言えよう。220窟壁画の中央に不自然な矩形の蓮池が現れたのは、阿弥陀仏五十菩薩図というすでに世に流布していた一つの図像を合成したため、とも考えられるのである。2、南北朝末〜隋代の仏教界と阿弥陀図像の流布ここで、阿弥陀仏五十菩薩像の流布と、同時期の阿弥陀浄土信仰との関わりについて考えてみたい。『感通録』の記述に拠れば、阿弥陀仏五十菩薩像は隋文帝の頃、北斉の道長法師より沙門明憲に伝わったといい、その流布のきっかけは北斉〜隋初に訪れたようである。また、臥龍山像銘文では、のち隋代には豫洲刺史鄭氏を経て長安真寂寺(化度寺)に伝わったと記しており、道宣が記した話の「続き」が記される(注11)。また『続高僧伝』によれば、同じく北斉で活動していた慧海は、のちに江都(揚州)に安楽寺を創建して住まうが、そこで斉州の僧道詮からこの図を齎され、模写したという(注12)。これらは、ほぼ同時代を生きた道宣の伝聞した内容で、ある程度実社会の様相を反映したものと認められる。また、貞観八年には説話と図像とが共に四川省北部の綿陽にまで伝播したことからみても、一定の範囲に伝播したことが確かめられる。また臥龍山像銘文が相伝をことさら詳らかに記す点は、阿弥陀信仰を持つ立場からの図像称揚の意図があったとも解せる。なお、『感通録』には、この説話に続けて北斉の画工曹仲達の活躍が記される。彼が阿弥陀仏五十菩薩像を描いたとは明記していないものの、文脈ではそうした解釈もできる。こうした西域由来の図像や画風が、隋代には旧北斉地域から中央へと伝わり、流行しつつあったことを示していよう。ところで、同時期に生きた浄土教の祖師・道綽は、著作『安楽集』において、阿弥陀浄土に帰依していた六大徳として、菩提流支、慧寵、道場、曇鸞、大海、北斉僧統(法上)を挙げる。道場はc都大集寺に住した高僧であり、望月信亨氏によれば、この道場は上記の道長にあたる。また望月氏は慧寵を道寵、大海は慧海にあてている(注13)。この六大徳は、ほぼすべてが北斉の地で活躍した高僧である。道綽が浄土教の鼻祖― 97 ―

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