と見なす菩提流支は、北印度からの渡来僧である。c都において『十地経論』『入楞伽経』、あるいは世親著『無量寿経優婆題舎願生偈』などを漢訳し、仏教界に大きな位置を占めた。特に十地経論の漢訳と研究は、北斉地域において一大教派をなした地論宗の先駆となった点、重要な役割を果たしたといえる(注14)。道寵は流支の門人であり、道場・法上は孫弟子にあたる。隋代を代表する浄土経典の研究者である浄影寺慧遠は法上の弟子にあたり、その系脈は隋代以降も継承されていった。なお、『続高僧伝』によれば、かの曇鸞に観経を授け、阿弥陀浄土への帰依を促したのがまさしく菩提流支であった(注15)。流支が阿弥陀浄土信仰の発展に重要な役割を果たしたと、道綽に認識されていたのは、こうしたエピソードも含めてのことかもしれない。『安楽集』を著した当の道綽にしてみると、その活動範囲は晋陽(太原)周辺が中心であり、北斉の第二の都であった太原と言う土地柄上、北斉の僧を中心に記したのも自然の結果かもしれない。そして阿弥陀浄土教の大成と布教は、道綽から善導へと継承される中、やはりこの地域を一つの中心として展開していく。北斉c都を起点に知られるところとなった阿弥陀仏五十菩薩像は、そうした阿弥陀浄土信仰の教線拡大を、美術の面から支えたと想定される。つまり、道綽が当時浄土信仰を持つ高僧として挙げた僧の中で、道場、慧海といった僧が、直接的に阿弥陀仏五十菩薩像の図像伝播を担っている。当然これらの僧の浄土信仰と、当時話題となった阿弥陀の瑞像伝播が、少なからず連携しながら展開したと考えるべきであろう。220窟壁画の図様も、そうした流れの延長線上にあるものではないか。まとめ本稿では、220窟壁画に代表される大画面浄土変の成立にあたり、阿弥陀仏五十菩薩像を一つの大きな要素と捉えた。同像は、その特徴的な蓮茎の表現は勿論、当時の仏教美術において突出して華麗な群像表現を伴っていた。阿弥陀浄土の光景をイメージする際に、「阿弥陀仏を囲繞する浄土の会衆」というモチーフは欠かせないものであった(注16)ことを踏まえると、50体を超える聖衆が阿弥陀如来を囲み、その法悦に浸る様は、浄土の光景として、この上なく相応しい。また自由に配置された菩薩衆の群像や、枝分かれする蓮茎のモチーフを伴った台座は、単なる像の並列に終始した古式の構図から空間的広がりを持つ構図への展開を促すモチーフとしての役割を果たしたと考えられる。こうした視覚的に鮮やかな図様は、特に、教学に十分な理解のない民衆に信仰の機縁を生じさせる役割を果たしたことであろう。220窟壁画には、当時流行の胡旋舞などが舞楽段に採用されているが、これも同様の役割を果たしたであ― 98 ―
元のページ ../index.html#109