鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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注⑴同壁画について述べる先論は数多い。ここでは本稿執筆にあたり直接的に参照した主なものを列挙する。河原由雄『日本の美術 272 浄土図』至文堂、1989年、中村興二「西方浄土変の研究」⑤〜⑪『日本美術工芸』495〜501号、日本美術工芸社、1979年〜1980年、鄧健吾「敦煌莫高窟第二二〇窟試論」『佛教藝術』133号、毎日新聞社、1980年、pp. 11−33、勝木言一郎『初唐・盛唐期の敦煌における阿弥陀浄土図の研究』創土社、2006年、大西磨希子『西方浄土変の研究』中央公論美術出版、2007年、八木春生「敦煌莫高窟第二二〇窟に関する一考察」『佛教藝術』324号、毎日新聞社、2012年、pp.9−41、王恵民「敦煌隋至唐前期西方浄土図像考察─以観無量寿経変為中心」『7−9世紀唐代仏教及仏教芸術国際会議論文集「唐代仏教与仏教芸術」』2006年、於シンガポール大学。ろうと思われる。またその際、浄土教の萌芽を育み、また阿弥陀図像伝播の上流となった旧北斉地域、つまり華北東部勢力の果たした役割については今後検討を重ねていきたい。併合された立場である旧北斉の人々が、様々な方面で統一後の中央政界・社会に位置を占め、その地位の向上に努めたことも(注17)、背景の一つとして考えられる。旧北斉地域で育まれた阿弥陀浄土教の萌芽は、阿弥陀仏五十菩薩像のような優れて華麗な図像を一つのよすがとしながらその影響を拡大し、また初唐には、阿弥陀西方浄土変の創出につながったのではないだろうか。⑵八木春生注⑴前掲論文。八木氏は、隋代までの作例の検討などから、「敦煌莫高窟内における自立的な展開の結果、第二二〇窟壁画が出現したとは考えにくい」との認識のもと、長安など中原で流行した図様が敦煌へ伝わったという可能性を想定しつつ、窟内壁画や窟構造の総合的検討を行っている。⑶八木注⑴前掲論文⑷八木注⑴前掲論文では、麦積山127窟壁画の構図に、南朝からの影響を認めている。また、山名伸生「吐谷渾と成都の仏像」『佛教藝術』217号、毎日新聞社、1995年、pp. 11−38では、いわゆる青海ルートを通じた西方と成都の交流について論じている。南朝成都造像と甘粛地域との間に、造像様式的関連があることは、重要な問題である。⑸勝木言一郎「小南海石窟中窟の三仏造像と九品往生図浮彫に関する一考察」『美術史』45号、美術史学会、1996年、pp. 68−86⑹大西磨希子氏は、220窟壁画にもすでに『観無量寿経』のモチーフが明確に描き入れられる点を指摘している(注⑴前掲書)。浄土経典への理解と浄土図への反映が、より細やかになっていく時代の傾向が明らかである。⑺中村注⑴前掲論文。また、岩田茂樹「西方浄土変としての橘夫人厨子─その史的・系譜的位置について」『文化学年報』34号、同志社大学文化学会、1985年、pp. 98−123、公維章「莫高窟第二二〇窟南壁無量寿経変札記」『敦煌研究』2002年第5期、敦煌研究院、pp. 8−12、など。⑻当該図像は、諸史料や先行論文によって「一仏五十菩薩図」「阿弥陀三尊五十菩薩図」「阿弥陀五十二菩薩像」など様々に呼称されるが、本稿では、最初期の作例とみられる臥龍山千仏岩西― 99 ―

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