鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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図版出典図1 敦煌文物研究所編『中国石窟 敦煌莫高窟 三』平凡社、1981年、図版24図2 天水麦積山石窟芸術研究所編『中国石窟 麦積山石窟』平凡社、1987年、図版161図3 張林堂・孫迪編著『響堂山石窟─流失海外石刻造像研究』外文出版社、2004年、p. 233図1図4 筆者撮影図5 敦煌文物研究所編『中国石窟 敦煌莫高窟 二』平凡社、1981年、p. 178挿図8図6 敦煌文物研究所編『中国石窟 敦煌莫高窟 三』平凡社、1981年、図版94⑼「阿弥陀仏五十菩薩像者、西域天竺之瑞像也。相伝云。昔天竺雞頭摩寺五通菩薩、往安楽界請阿弥陀仏。娑婆衆生願生浄土、無仏形像、願力莫由。請垂降許。仏言。汝且前去。尋当現彼。及菩薩還、其像已至。一仏五十菩薩各坐蓮花在樹葉上。菩薩取葉所在図写流布遠近。(中略)隋文開教。有沙門明憲。従高斉道長法師所得此一本、説其本起、與伝符焉。是以図写、流布遍於宇内。時有北斉画工曹仲達者、本曹国人。善於丹青、妙盡梵迹、伝模西瑞、京邑所推。故今寺壁正陽、皆其眞範。」(『大正新脩大蔵経』52巻、421頁a−b)⑽この説を採用するならば、阿弥陀如来の左右に侍立する二菩薩が、鄭注⑴前掲論文で論じるような樹下説法図の構図の名残ではなく、五十菩薩の図様を借り、さらに観音勢至二菩薩を描き加えたためだ、と考えるべきだろう。⑾臥龍山千仏岩西面1号龕の銘文によれば、「(前略)至十六年、有豫州刺史鄭、在州盡得一躯併本伝、遂将入京在真寂寺、流通供養。於是京師始有斯像。(後略)」(四川省文物考古研究院『綿陽龕窟─四川綿陽古代造像調査研究報告集』文物出版社、2010年)⑿『続高僧伝』巻十二隋江都安楽寺釈慧海伝「(前略)忽有斉州僧道詮。齎画無量寿像来云。是天竺鶏頭摩寺五通菩薩、乗空往彼安楽世界、図写尊儀。既冥会素情、深懐礼懺。乃観神光招爍。慶所希幸。於是模写懇苦、願生彼土。(後略)」(『大正新脩大蔵経』50巻、515頁c)⒀望月信亨『中国浄土教理史』法蔵館、1942年⒁なお、これらの高僧は、いわゆる地論宗の相承とも近いが、一方で三階教もこうした北斉の成熟した仏教界で育まれたといえる(西本照真「三階教成立の基盤としての地論宗」金剛大学校仏教文化研究所編『地論思想の形制と変容』国書刊行会、2010年、pp. 324−336)。阿弥陀仏五十菩薩像が三階教の拠点でもあった長安真寂寺へも伝わった点、浄土教と三階教が互いに交渉しながら発展していった可能性(廣川堯敏「敦煌出土七階仏名経について─三階教と浄土教の交渉─」『宗教研究』第55号⑷、日本宗教学会、1982年、pp. 585−619)などを考慮すると、大変興味深い。⒂『続高僧伝』巻六魏西河壁谷玄中寺釈曇巒伝(『大正新脩大蔵経』50巻、470頁b)⒃阿弥陀浄土の観想を説く初期的な経典でもある『般舟三昧経』には「其国名須摩提。在衆菩薩中央説経」(『大正新脩大蔵経』13巻、905頁a)等とある。聖衆に囲まれた中で説法する阿弥陀如来、といったイメージは他の浄土経典の中でも一般的に語られている。⒄北斉系士人の動向については堀井裕之「即位前の唐太宗・秦王李世民集団の北斉系人士の分析」『駿台史学』第125号、駿台史学会、2005年、pp. 21−45、また北斉仏教の影響をしめすものとして、藤吉眞澄「北斉系官僚の一動向─隋文帝の誕生説話をてがかりに─」『鷹陵史学』第4号、佛教大学、1977年、pp. 243−274、などが参考になる。面1号龕像銘文および『集神州三宝感通録』に共通して用いられる「阿弥陀仏五十菩薩像」の呼称を用いる。― 100 ―

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