鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
114/625

研 究 者:早稲田大学大学院 文学研究科 博士後期課程 久 保 佐知恵はじめに細川林谷(1782−1842)は讃岐に生まれ、江戸を拠点に活動した篆刻家である。諸国を旅してまわりながら、篆刻の余技として数多くの絵画作品を遺した。その交友関係は広く、頼山陽は林谷の篆刻の技を高く評し、田能村竹田もまたその飄逸とした人柄と画風を敬愛した。本研究の目的は、林谷が生涯を捧げた旅と、旅で出会った各地の文化人との交流に着目し、林谷を取り巻く文化的環境を究明することにある。本稿では特に、山水図を中心とする画業の特色や、林谷とその交友が嗜んだ盆石趣味の実態について考察する。第一章 略歴と没年に関する新資料細川林谷は天明2年(1782)に讃岐国寒川郡石田村に生まれ、本姓を広瀬、名を君潔(後に潔と改名か)、字を痩仙、氷壺、通称を春平(後に俊平と改名)と言う。林谷はその号の一つである。幼少より同郷の阿部良山(1773−1821)に篆刻を学んだが、若くして「探奇之志」があり、飄然と故郷を去って長崎や京都などを遊歴したあと、江戸において篆刻の第一手と称せられた。生涯にわたって諸国を遊歴し、最期は天保13年(1842)6月19日、江戸で没した。その墓所は現在、東京都港区虎ノ門の梅上山光明寺にある(注1)。著書には『帰去来印譜』(1827年序)や『詩鈔印譜』(1846年序)などの刊本があり、後者に収録された阿部縑洲(1793−1862、良山の子で篆刻家)の「林谷山人遺稿序」(以下「遺稿序」)は林谷の没年を天保14年6月19日と伝えるが、これは誤りと思われる。というのも、梅上山光明寺の林谷墓の側面には「(前略)以天保十三年壬寅六月十九日■壽六十一(後略)」(■は欠損により判読不能)と刻まれ、松崎慊堂の『慊堂日暦』天保13年7月1日の条にも「林谷死す。六月十九日。(後略)」とあるからである(注2)。さらにこの度、林谷の没年と享年を確定する新資料として、かつて林谷墓所を改葬した際に出土した石製の墓誌を拝見する機会を得た〔図1〕。寸法は縦19.4cm(最長)、12.5cm(最短)、横6.4cm、厚2.0cmで、上部が斜めに大きく欠けている。隷書体を用いて、表面中央に「林谷先生誌」、裏面には石の欠損部分に添って以下のように― 103 ―⑩細川林谷研究─旅と交友を中心に─

元のページ  ../index.html#114

このブックを見る