(二)繰り返される主題刻まれる。 先生姓細川氏名潔字氷壺 号林谷善篆刻為世所 推 天保壬寅夏六月十九日病卒 年六十一材質や大きさなどから推して、墓誌に用いられた石板は、印刀を研ぐための砥石であった可能性が高い。近世の大名墓から銅板あるいは石板の墓誌が発見されることは少なからずあるようだが(注3)、近世文人の遺例は極めて少なく、彼らの葬送を考える上でも、林谷墓誌は貴重と言える。第二章 山水図の変遷と特色(一)初期の画業林谷の絵画遺品は、旅で目にした風物を描いた山水図が圧倒的に多い。これまで実見した中で最も古い年紀を持つ作例は、高松市歴史資料館蔵「馬関山水図」〔図2〕である。「庚午仲秋冩於馬関客裏 林谷山人」という款記から、文化7年(1810)8月、旅先の長門国赤間関で描いたとわかる。このとき林谷は29歳であった。筆致はきわめて謹直で、林谷特有の粗放さは見当たらない。おそらくは、中国の舶載画譜などを手本に制作したのだろう。これと同様の作風を呈するものに、香川県立ミュージアム蔵「山水図」(旧香川県文化会館資料)がある。年紀はないものの、「廣潔信印」という款印が注目され、「廣」とは林谷の旧姓である広瀬を示すと思われる。林谷の姓が細川へと変わった正確な時期は不明だが、少なくとも35歳の時点では、未だ広瀬姓を名乗っている(注4)。現存する有年紀作品は、文政年間後期から天保年間にかけて、すなわち40代後半以降が殆どであるため、これら2つの山水図は、初期の画業を伝える数少ない作例と見なされる。林谷特有の画風が確立するのは30代から40代前半の間と思われ、今後この時期の基準作が見出されるのを俟ちたい。林谷には、同じ旅に取材した作品を、構図を変えて繰り返し描く傾向がある。碓氷関、信濃国姨捨、越後国小千谷、大井川などを描いた図が複数見つかっているが、中― 104 ―
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