(三)順礼帖と本画制作でも碓氷関図が一番多い。林谷は文政11年(1828)夏から翌年初春にかけて、信越・東北地方へと大旅行を敢行しており、おそらくは夏頃に碓氷関を通過した。この一連の旅の様子を記録した高松市歴史資料館蔵「林谷山人紀遊漫画」に「碓氷関図」〔図3〕が含まれる他、同館蔵の軸装作品、香川県立ミュージアム蔵の軸装作品、大阪府個人蔵の作品(「北越紀行」帖中の1葉)の計4点がある。いずれも、濃い雲霧に包まれた険峻な峠道を昇っていく駕籠かきの姿が描かれ、「碓氷関畔雨参差 連日濛々無霽時 前路後村曽記處 不須轎底費詩思」という題詩が記される(注5)。おそらく林谷にとって山水図とは、実景から得た強い印象を、旅の最中に詠んだ詩と共に幾度も画面に吐露することにより、造形として定着させていく作業の所産であったと想像される。林谷は遊歴した各地の風物を、順礼帖という数百頁にも及ぶ画帖に記録していたという。縑洲の「遺稿序」には以下の一節がある。山人別有二順禮帖者一、一日出示レ予、蓋其探二奇於四方一也、佳區名寰、窮陬僻境、隨レ遇即畫レ之、以當二行紀一者、凡數百頁、訢賞竟レ日、(中略)又質頁頁必著二朱衣者一人一何也、曰、山人耳、(注6)林谷から差し出された順礼帖を心ゆくまで堪能した縑洲が「各頁に必ず朱衣を着た人物が一人描かれているのは何故か」と訊ねたところ、林谷は「それは私だ」と応えたという。実際、画帖に限らず山水を描いた作品には、朱衣を身にまとった人物がしばしば登場する。順礼帖は、私的な旅の記録であると同時に、本画制作のための手控えとして活用されたと推測される。こうした順礼帖の一部であった可能性が高い作品に、「西国順礼詩画帖」(個人蔵)がある。文政12年(1829)春から天保2年(1831)秋頃にかけて、西日本を遊歴した時に目にした風物を、題詩と共に記録した旅行記である(注7)。図様を比較検討した結果、林谷の山水図の代表作と言える究理堂文庫蔵「山水画巻」は、その主要部分が「西国順礼詩画帖」のうち薩摩国の風物を描いた5図と近似するため、九州旅行が主題であると判明した(注8)。画巻の所々には朱衣の林谷が描かれ、九州各地を旅する様子を目で追うことができる。この他、旅行記との比較を通して、地名を特定ないし推定できる作品に「山水画巻」― 105 ―
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