鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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〔図4〕がある。奥書から天保2年7月に旅先の尾張国で描いたとわかるが、その主題は同国の風物ではないようだ。冒頭より順に、広大な水面、火山、峠、火山の麓に広がる草原、山間の仏閣、山腹に建つ神社、濁流、5つの峰を持つ山、海に面した台形の山、平地と懸崖、5つのアーチからなる橋、岬の突端に建つ神社などが続く。画面の所々には、舟に乗って水面を漂い、火山に登り、草原を騎馬して進み、平地で友と語らい、橋を渡る朱衣の林谷が見える。これらを「林谷山人紀遊漫画」「西国順礼詩画帖」の図様と比較すると、噴煙たなびく火山は浅間山、峰が5つに分かれた山は讃岐国の五剣山、台形の山は同じく屋島とわかる〔図5、6〕。また、巻末近くの橋はその特異な形から、周防国の錦帯橋と思われる。おそらく林谷は、文政11年(1828)夏から本作を描いた天保2年7月までの旅行中から、特に思い出深い地を選んで、一巻の山水図を仕立てたのだろう。自由奔放に描き進めたように見える本画制作においても、旅行記に蓄積した各地の風景を周到に再構成していたことを示唆する。(四)享受者層と旅への憧れ究理堂文庫蔵「山水画巻」は、奥書に「辛卯穀雨訪秋岩仙史用拙居、問以所遊歴山水勝、冩此代談、林谷山人潔」とある。つまり天保2年3月中ごろ、蘭方医の小石元瑞(1784−1849、号秋岩仙史)の書斎である用拙居を訪れた時、これまで遊歴した所の景色を問われたので、それを絵に描いて返答の代わりとした、と言うのである。興味深いことに、同様の動機による山水図が他にも見出された。香川県立ミュージアム蔵「山水図」〔図7〕の款記は以下の通りである。天保乙未仲秋予客浪花 立公辱訪 問所所ママ予経歴酔中卆寫其真景以答博粲林谷山人潔「天保乙未仲秋」は天保6年(1835)8月を示す。縑洲の「遺稿序」によると、この年の春、林谷は長州藩の命を受け、江戸から長門国へ旅に出ており、同地に長らく滞在したのち、7月に大坂の縑洲を訪ね、冬まで過ごしたという(注9)。「立公」の特定には至らなかったが、名を記す前に1字分の空白を設けていることから、身分の高い人物と推測される。款記を意訳すると、大坂滞在中に立公の訪問を受け、これまで遊歴した所の景色を問われたので、酒に酔いつつ即座にその実景を写して返答の代わりとした、となる。制作時期が長門国からの帰途に当るため、本作は同国の特定の地域を描いたと推測される。画面手前、渓流の上に架かる橋の先に、杖を携えた旅人― 106 ―

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