と従者が見えるが、この旅人は代赭の衣服を着ていることから林谷の姿と考えてよい。彼らを圧するかのように巨大な懸崖がそびえ、その向こう側には水面が広がる。水面の先には堅牢な石垣が連なり、さらにその奥には城のような高殿が見える。これはおそらく、三方を海に囲まれた萩城と思われる。総じて、地名を特定ないし推定できる山水図には、林谷の姿が描かれることが多く、旅先の景色について友人から受けた質問への返答という意味合いが込められている可能性が高い。旅をしたくともその機会に恵まれない友人たちにとって、諸国を自由気儘に放浪し、見知らぬ土地の風景を即興で描いてみせる林谷は、一種景仰すべき存在であったのだろう。第三章 盆石趣味と交友林谷は奇石をこよなく愛した。その遺稿集『詩鈔印譜』には「山房玩石三十之一」という副題をもつ漢詩が2首収録される。また、儒学者の広瀬旭荘(1807−1863)が詠んだ「題林谷山人石譜」からは、林谷が石を探し求めて各地を旅したり、愛石の写生図を旅の供として持参したことがわかる(注10)。筆者は先に、林谷の「盆石図巻」4例への考察を通して、彼の旅には探石をたのしむという目的があったことを検証した(注11)。本章では特に、林谷とその周辺の交友たちにおける盆石愛好の一端を明らかにしたい。まず、頼山陽(1780−1832)は江戸時代後期を代表する愛石家として夙に知られ、盆石を詠った漢詩や遺愛の盆石が多数伝わる(注12)。画家の浦上春琴(1779−1846)は、骨董品の蒐集において常に山陽と競ったというが、彼にもまた盆石趣味があった。小石元瑞の「題春琴居士手謄素園石譜後」(1842年成)によると、春琴は「腔同(峒)」や「三十六峯」をはじめ、中国の名石に因んだ銘を持つ盆石を数多く愛蔵したという(注13)。春琴が写した林有麟輯『素園石譜』4巻(1613年自序)は、中国の様々な名石に関する故事や漢詩を石の図と共に収録した書で、林谷をはじめ盆石に関心の高い当時の日本の文人に愛読されたと思われる。親しい文人の間では、盆石の贈答がしばしば行われたようである。例えば、田能村竹田筆「翰墨随身帖」(大和文華館蔵)の1葉に描かれた盆石は、既に河野元昭氏が指摘されたように、竹田に伴い上京の途次にあった帆足杏雨(1810−1884)が壇ノ浦で拾ったもので、天保4年(1833)4月に小石元瑞へ贈られたと推測される(注14)。元瑞もやはり愛石家であり、天保6年5月に儒学者の篠崎小竹(1781−1851)から譲り受けた「白峯磬石」という銘石が現存する(注15)。この他、林谷と親交のあった― 107 ―
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