鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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1881)が自らの還暦を記念して開催した展覧会の出品目録に、以下の記述がある。僧・雲華大含(1773−1850)にも盆石贈答に関する逸話がある。かつて嵐山で拾った石を愛玩し、頼山陽に頼んで石の表面に「袖裡嵐山」と銘を書いてもらったが、ある時、儒学者の佐藤一斎(1772−1859)から強いて割愛を請われたので、石のために詩を詠むことを条件に承諾したという(注16)。林谷もまた愛蔵の盆石を人に贈っている。高松藩に仕えた儒者の山田梅村(1816−拳石一座石質堅牢。赭色古澤。通體弾痕小大點點相疊。想東坡所謂弾子窩之類。林谷山人嘗所贈其家茂松翁。 浪華張橘西尾氏所蔵(注17)表面に無数の陥没がある赤茶色の石を贈られた「茂松翁」とは、高松藩士で琴に秀でたという高島茂松(1799−1860)を指すものか。今まで実見した林谷の「盆石図巻」の中に、これと同じ特徴を持つ石は見出せないものの、三重県個人蔵本には「今や無」と注記された石が2つあり、友人に譲渡された可能性が考えられる。以上見てきたように、林谷とその交友には盆石趣味が共通してあり、盆石を題材に詩を詠み、旅先で拾った石を愛玩し、友人間で盆石を贈答するといった行為が日常的になされていた。美術史において盆石趣味が取り上げられることは少ないが、蘇軾や米芾といった中国を代表する愛石家への憧れや、奇なるものを愛好する価値観の反映として注目に値する。おわりに林谷の生涯にわたる旅の動機を、縑洲は「探奇之志」と表現した。奇勝や奇竹、奇石を求めて各地を旅するという行為はその発露と言える。ここで注目したいのは、林谷が薩摩国の海岸付近で詠んだ「我若し忽然として羽翼を生ぜば 呉や越か又た齊州か」という一節である(注18)。これにより、林谷の関心が、同時代の清朝ではなく古代中国へと向けられていたことがわかる。また、羽翼が生じるという表現は仙人になることを含意するが、実際に林谷は自分自身を「仙風道骨有り」と称していたと伝わる(注19)。林谷は絵画の世界において、古代中国へと旅立っている〔図8〕。岩を積み重ねた奇形の山脈の合間から、万里の長城を思わせる城壁がうねるように姿を現す。たなびく白雲の彼方に長城を望むのは、朱衣の林谷である。濃墨を用いた筆致は力強く、岩― 108 ―

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