1.2012年度助成研 究 者:埼玉大学 教育機構教育企画室 准教授 加 藤 有希子1 前衛芸術において軽んじられてきた健康と幸福精神分析の立場から精力的に研究を行っている美術史家ドナルド・クスピットは「前衛芸術は幸福からは程遠い。それは狂気とよべるほどまでに不幸である」といみじくも述べている(注1)。ヴァン=ゴッホは自殺し、セザンヌは引きこもり、ムンクは精神を病み、デュシャンはシニカルにあざ笑う。精神分析が前衛をひとつの症状と捉え、病気の不幸になぞらえるのも、無理はない。理論家カーステン・ハリーズは、前衛芸術の「第一の鍵となる規定は否定性negativityである」と主張し、「芸術はどうして否定性以外のものでありえただろうか?」と問いかける(注2)。これをオルテガ・イ・ガセットは「芸術の自殺行為」と呼んだ。「芸術は自己を侮蔑することにおいてほど、その本来の魔術性をあらわにしたことはなかった。この自殺的行為によって、芸術は芸術たり得ている」(注3)。そして周知のように彼はそこに前衛芸術の「非人間性」を見るのである─「新芸術が、誰にも理解できるものでないということは、その創造の衝動が本質的に人間にそぐわないものであることを意味する」(注4)。前衛芸術はこのようにいわゆる健全な人間性を斥け、幸福や健康から背を向けて、狂気を称揚すらする方向へと向かった。ハーバート・リードは言う。「人生そのものは悲劇的である。そして深遠な芸術は常にこの実感から始まる」(注5)。しかし冒頭のクスピットも主張するように、このような人生の悲劇性の強調は、青春の悩みを引き受ける西欧世界の「若さ」の表れであったとも言える(注6)。前衛が表面化する1850年代から1960年代にかけては、西欧を中心とした世界は、紆余曲折を経ながら、経済的にも政治的にも拡大しつづけた。このような発展途上にあって「人生は悲劇だ」と言うことはある意味では容易かった。そこには青春特有の混乱と希望があった。しかし今はどうだろうか。西欧を中核とした老齢化した社会は、むしろ「癒し」を必要としている。精神科医三脇康生も認めるように、現在のアートシーンは安易とも言える勢いでヒーリング・アートをもてはやす(注7)。かつてレジス― 1 ―シンプトム① 健康と幸福の表象─新印象派とマティスの「均衡」概念─Ⅰ.「美術に関する調査研究の助成」研究報告
元のページ ../index.html#12