鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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注⑴細川家代々の菩提寺である西鐘山光明寺(香川県さぬき市寒川町石田東甲)には、郷土における顕彰活動の一環として、昭和58年(1983)に建てられた林谷の墓がある。その向かって左隣には、林谷の父・細川義平の墓が現存する。大きな自然石を用いた義平墓の墓誌は以下の通りである(■は磨滅により判読不能)。 表:細川義平墓 裏:先人以文化乙亥年二月二十三日卒 文政己丑歳余在崎陽令清人朱柳橋 書碑面字 今茲庚寅秋与兄太■建之林谷潔■一」とある。富士川英郎・松下忠・佐野正巳編『詞華集 日本漢詩』第2巻、汲古書院、1983年、498頁より引用。なお、西鐘山光明寺のご住職によると、広瀬と細川はいずれも、林谷の故郷である寒川町に多く見られる姓という。二林谷ト皴を幾重にも刻みこむなど、日本の風景を題材とした山水図とは意趣を異にする。古代中国あるいは神仙世界に対する林谷自身の夢想が投影された作品と言えよう。林谷の中国的なものへの憧憬がどのようなものであったのか、またその憧憬の内実が江戸時代後期の文人の中でどのように位置づけられるのか。これらは今後の新たな研究課題としたい。296頁を参照、山田啄訳注『東洋文庫420 慊堂日暦6』平凡社、1983年、226頁より引用。すなわち、文政12年(1829)に林谷が長崎を訪れた際、清人の朱柳橋(浙江省嘉興府平湖県出身の商人)に「細川義平墓」と碑面の字を書いてもらい、天保元年(1830)秋に兄の太左衛門と共に父の墓を建てたという。⑵中井敬所著・水田紀久訓読校注「日本印人伝」(中田勇次郎編『日本の篆刻』二玄社、1966年)⑶「近藤甫泉墓の調査」(東京都港区教育委員会編『港区文化財調査集録』第1集、東京都港区教育委員会、1992年)69頁を参照。⑷菊池五山編著『五山堂詩話』巻10(1816年刊)に「廣君潔字ハ氷壺號ス⑸香川県立ミュージアム蔵本のみ、転句の「曽」が「元」となる。また、縦長の画面に碓氷関全体を俯瞰する他本とは異なり、横長の画面に駕籠かきだけを描いている。⑹細川林谷著『詩鈔印譜』(1846年序、早稲田大学図書館蔵本)2丁裏・3丁表より引用。読点、訓点は原文の通り。⑺拙稿「放浪の文人・細川林谷筆『西国順礼詩画帖』について」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』57、早稲田大学大学院文学研究科、2012年を参照。⑻拙稿「細川林谷筆 山水画巻」『國華』1412、國華社、2013年を参照。⑼注⑹前掲書2丁表−3丁裏を参照。⑽富士川英郎・松下忠・佐野正巳編『詩集日本漢詩』第11巻、汲古書院、1987年所載、広瀬旭荘著『梅墩詩鈔』4編巻1、1856年刊、544−545頁を参照。⑾拙稿「細川林谷における旅と愛石」『美術史』175、美術史学会、2013年を参照。⑿丸島秀夫「頼山陽の盆石詩文─苦心の盆石詩文」『日本愛石史』、石乃美社、1992年、345−360― 109 ―

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