鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
125/625

研 究 者:群馬県立土屋文明記念文学館 学芸員 中 田 宏 明はじめに鋳金工芸作家、金工史家、そして歌人であった香取秀真(1874−1954)について、その芸術論を中心に検討したい。先行研究(注1)との重複をなるべく避けるため、美術・工芸史、短歌史にまたがる秀真の古典学習と「写生」「写実」に注目する。本稿では、単なる職工仕事ではない工芸のことを指す場合は秀真の言葉を借りて「工芸美術」、(一般、純粋)美術と「工芸美術」を合わせて呼ぶ場合は「美術・工芸」と記す。香取秀真が鋳金家としての実作において日本東洋の古典を重視し、外来の新様式の導入に積極的だった津田信夫(1875−1946)と対比される第一人者であり、また金工史家として並ぶもののない存在であったことは、美術・工芸史では良く知られている。しかし歌人としての活動は、美術・工芸史はもちろん、短歌史においても、多く語られることはないのが実情である。そうした中、歌人としての香取秀真が取り上げられた出来事に、平成14年(2002)に子規庵保存会で行われた田井安曇氏による講演会(注2)や、平成15年(2003)に佐倉市立美術館で行われた「香取秀真展」の際の大島史洋氏の講演会「正岡子規と香取秀真」がある。二人の歌人に共通するのは、短歌結社「未来」に属していた、又は属していることであり、ここに秀真の短歌史的な位置が見えてくる。「未来」は、正岡子規の流れを引くと自認した「アララギ」を戦前から戦後にかけて長く牽引した土屋文明(1890−1990)に師事した近藤芳美(1913−2006)を中心に、昭和26年(1951)に結成された結社である(注3)。現代における歌人・香取秀真への言及は、アララギの流れを引く歌人が「アララギ」とは何かを自問する中で、アララギと距離を置いた子規系、根岸系の歌人に思いをいたす、短歌史の相対化作業とも言えよう。秀真は、明治41年(1908)の『阿羅々木』創刊号に歌を寄せるなどしたものの、「アララギ」とは基本的には距離を置き、大正13年(1924)以来「子規庵歌会」に集い、同会が昭和5年(1930)以来発行した『阿迦雲』に参加していた。これは近代工芸史における最大の転換期である大正15年(1926)の「无型」結成、昭和2年(1927)の帝展第四部設置などと同じ時期にあたっている。― 114 ―⑪香取秀真研究─鋳金作家として歌人として─

元のページ  ../index.html#125

このブックを見る