1.香取秀真と古典⑴多ジャンルの古典学習秀真は明治24年(1891)に入学した東京美術学校で専門の金工史や岡倉天心の東洋美術史などの古典を学んだのはもちろんのこと、東京美術学校入学の年から大八洲学校にも通い始めるなど、和漢の古典文学を積極的に学び続けた。いわゆる「旧派和歌」(注4)に関する親しみ度合い、教養で言えば、秀真は正岡子規をしのぎ、明治31年(1898)、子規(竹乃里人)の歌論「歌よみに与ふる歌」には注目したものの、作歌においては「こちらが一日の長ありと」自認していたほどである(注5)。子規との交流は明治32年(1899)〜35年(1902)のことになるが、子規の存命中から、経済的な余裕がなかった秀真は専門の鋳金に集中し、限られた財力は金工史の史料収集に向けられ、また考古学にも興味を持って、作歌とは縁遠くなった(注6)。秀真は30歳を過ぎたころから東京美術学校で教えはじめ、鋳金を専門としながら彫金の講義も行い、『日本古鏡図録』(東京鋳金会、1902年)や『日本金工史』(雄山閣、1932年)など、金工全般の著書をいくつも著わして「金工史」を「工芸史」一般から独立させ、他に並ぶもののない存在となってゆく。早くから古印章などにも通じており、15〜16歳ですでに独学で印を刻し始め、東京美術学校在学中、大和古銅印の話を黒川真頼から聞いたと述べている(注7)。ある篆刻家から、秀真の作るものは篆刻とは言えず秦漢をむねとすべきだと批判されたそうだが、奈良朝を目標としているので「捨ておいてもらいたい」と述べており、高山寺本の『篆隷万象名義』や正倉院の《鴨毛屏風》の字を研究した。秀真が日本東洋美術全般を視野に入れ、中国の古銅器になどに対して尊敬の念を抱きながらも、「日本」の「工芸」を探求していたことは、その金工史研究と実作双方にうかがうことができる(注8)。大正5年(1916)、次のように述べている。「今も猶未開のまゝでこの不思議な技巧に携はつて居る吾等鋳工輩は、頗る開けた西洋の技法によらなくとも、いくらでも立派なもの、面白い物を作り出す事が出来るのは、萬世一系の国に生れて多くの参考品を有するが故である事を嬉しく思ふ。(注9)」茶道にも通じており、歌人の中できわめて例外的であった伊藤左千夫(1864−1913)の茶道趣味にも秀真が大きな役割を果たしていた(注10)。大正13年(1924)の『茶の湯釜図録』では、それまで使用されていなかった「茶の湯釜」という言葉を秀真が命名したと言われており(注11)、昭和8年(1933)発行の新編では、釜の俳句や歌なども紹介されている。― 115 ―
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