⑵正岡子規と香取秀真正岡子規が中村不折、下村為山などの画家から取り入れた概念である「写生」を文学に援用したことはあまりにも有名である。子規は(俳諧の)発句においては蕪村を、和歌においては万葉集を規範として発見し、それぞれを「俳句」「短歌」と呼び換え、古今集を攻撃し、写生を基本とした理論構築と実作を行った。子規が亡くなって2年後、明治37年(1904)に出版された遺稿集『竹の里歌』(注12)には、秀真にまつわる歌が11首(短歌10首)ほど登場し、「秀眞より奈良茶碗のたきやうを尋ねこしける返事のはしに」という詞書は、秀真が万葉集に急速に傾倒した子規に、古代の美術工芸について尋ねていたことを伝えている。子規には大きく分けて高浜虚子、河東碧梧桐に代表される俳句系の弟子、伊藤左千夫らの短歌系の弟子がいたが、短歌には俳句の改革の次に取り組んだから、ある程度の方法論は持ちつつもまだ具体的な知識や実作経験は乏しいという状態からスタートしており、短歌の方が弟子というより同士的意味合いが強かった。中でも秀真は他の弟子とは異なる特別な存在だったと言ってよい。子規は自らをモデルとして作った手びねりの像を焼いてくれるよう秀真に頼み、秀真も子規をモデルとした石膏像を作るなど、他の弟子とは異なる鋳金家ならではの特別な交流を結んだのである(注13)。生前の子規に接した人々もその死後は一枚岩ではなく、昭和8年(1933)、秀真は次のように記している。「嘗てある雑誌へ正岡先生に関する私の所感を載せた、ところが其の当時、岡麓君が私の子規先生観に大なる意義を申立てられて、たしか『アララギ』に載せられたのであつたらう。子規先生の同門が御前のは間違つて居るとか、さうではないとか云ひ合ふのも変なものだと考へたから、私は黙殺して今に至つた。素寒貧の鋳物師と、其の当時は素封家であると云はれた岡君との先生に就ての観察の相違は当然である。(注14)」子規の写生という概念の、秀真の歌への影響の一例として、鋳造をモティーフにした歌を挙げておく。秀真には子規の影響もあって流行する万葉語の使用はそれほど認められないが、長歌復興の影響は受けている〔表1〕。大正10年(1921)の歌であり、短歌のうち最後の2首などは、鋳金家ならではの優れた写生歌であろう。 鋳ものゝ歌一首并反歌三首(注15) やかまどくやし、鋳型とりいだす、火 吹屋の人の、いづれの顔も汗ながれたり、寒き日ながら 水かけてひやす鋳型にゆけぶりのもや─(くの字点)たつに雪ふり来にけり■■床ゆとたんの烟もゆる、ゆいれま近き、― 116 ―
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