鋳ものせる型出し置けば降る雪はふりては消えて型あらはなり ふる雪のつもるがなかに鋳こみたる型おくたゞち雪はとけつゝ⑶子規と万葉集、秀真と金工史国民国家が必要とする「国民文学」の座に万葉集が祭り上げられていったことは時代の趨勢でもあったが(注16)、子規の没後誕生した「アララギ」が子規を祖と崇め、万葉集の重視をもって、その系譜に連なろうとすることを、秀真は冷静な目で眺めていた。大正10年(1921)、「決して今の『アララギ』の諸君が唱へてゐるほどの萬葉崇拝では無かつたと私は信じる。(中略)単に萬葉派を以て居士の歌の全部を批評しようとならば、それは非常な誤りだ」と述べ、「ギコチない正岡調」ではなく、子規が「自分からつまらないものと」したような「なだらかなやすらかな歌」を評価している(注17)。はじめ「写生」を標榜して歌壇にも清新な存在感を与えた子規が万葉尊重を打ち出したことには、西洋文学の影響が強い文学者たちはもちろん、後に子規の流れを引く根岸派とロマン主義的な明星派の仲介者的存在となる「心の花」の佐佐木信綱(1872−1963)からも批判があった。こうしたことも秀真は昭和8年(1933)の「正岡子規と萬葉集」で正確に指摘しており(注18)、その終わり近くに次の一節がある。「私は最初に先生と萬葉との関係は、批評家及作家の両面から観察する必要があるといつた。併しこれは本来一如たるべき性質のもので、先生は実にその分つべからざる事を論じた最初の一人だつたのである。」秀真の金工関係の著書を分析して、それ以前の「積み重ね主義」とは異なる「批評」的な叙述であり、「受容者」ではなく「制作者」としてのものであるとの樋田豊次郎氏の指摘があり(注19)、子規と万葉集、秀真と金工史の関係性は、実作のために歴史に目を向ける同じ精神から来ているとも言えるだろう。ただ、子規の激情と比較して、秀真はより客観的で抑制的であることも事実であり、それは良く知られている金工史のみならず、短歌史の叙述においても、また同様である。⑷著作における典拠と索引の重視秀真は昭和4年(1929)、大村西崖の『東洋美術史』(1925年)に関して、その出典を明記しない姿勢に疑問を呈している(注20)。また『随筆ふいご祭』が『日本の鋳金』として再刊された際、「改版に就て再序」の中に、昭和10年(1935)3月23日の東京朝日新聞に載った脇本楽之軒(1883−1963)の書評が引かれており、「随筆ながら― 117 ―
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