鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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索引を附けたのは進歩的である。」とある(注21)。秀真のこうした傾向に関しては、具体的な論証は難しいが、短歌に親しんでいたことも無縁ではないように思われる。和歌の世界では、膨大な先行作品をふまえた上で微細な新味を出すことが長く行われており、仮に本歌取りのような直接的引用を行わない場合でも、先行作品についての教養は必須のことであった。それに加え、国文学史の大きな画期となった『国歌大観』の刊行が20世紀初頭にはじまり、勅撰和歌集だけでなく万葉集などの私撰集や主な家集まで、索引によって参照できるようになっていたのである。2.香取秀真と写生⑴美術・工芸における写生正岡子規は俳句と短歌の改革を行った他、散文の分野でも「写生文」の研究会として「山会(やまかい)」を開くなどし、秀真は写生文として「鋳物日記」を『ほとゝぎす』に発表している(注22)。秀真の写生歌についてはすでに簡単に触れたが、秀真の写生論、及びその工芸美術の実作との関係はいかなるものであろうか。工芸(美術)家に心構えを述べた、大正5年(1916)の「点滴偶話」には次のような部分がある(注23)。「工芸家がスケツチに行くも好いが、手近な毎日の周囲をもつと注意して観察したいと思ふ。自然を、山や森に求め探すよりも、近い生活に求めたら好からうと思ふ。故人はよく其れを求めてゐる。藤原時代の鏡にも、俗にオンバコといふ何処の路傍にもある極く平凡な葉が、ぽかつと附けてあるが、それが非常に面白い感じを与へる。素直に如実に描ければ其れが最上であらうと思ふ。去年院展の山本鼎君のトマト等は衝けば凹みさうな程に好い感じを出して居た。(中略)或人は曰く、あの絵には今一つ山本君の或物が加はらなねば往けないと、だがこんな負惜しみは聴きたくない、工芸界にも頻りとこんな評言を聴く、厭なことだ。モデルを描く、それは最もよくモデルが描かれゝば好いと思ふ。スケツチをする、最も如実に写実されゝば言ひ分はあるまいと思ふ。其処に余韻だの、文学的意味を感ずる必要はあるまい、個性が出てをらぬの、主観がどうのと云ふことは実に下らぬことだと言ひたい。其物をそれ自身として表す以外に、何を附け加えるものがあらう。」昭和27年(1952)の脇本楽之軒との対談では、秀真が金工においては大島如雲だけが「名人」であると述べた後に、次のやり取りがある(注24)。― 118 ―

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