タンスと反逆を旗印とした芸術は、いまや「癒し」をひとつのミッションとしている。この芸術の質的な転換のなかで─これは若から老への人生論的転換であるだけでなく、後述のように芸術そのものの枠組みをも脅かすのだが─ひとつの例外的な動きがある。それが反逆的な前衛芸術全盛期でありながら、芸術に健康、平和、癒しを志向した20世紀転換期の新印象派とつづくマティスの試みであった。本論は新印象派とマティスというもはや語りつくされたとも言える前衛期の色彩画家を、癒しを志向する私たちの時代の芸術との関係性のもとに掘り起こす─彼らは芸術に健康と幸福を志向した先駆者だった。2 健康と均衡のアート─静謐なるレジスタンス─マティスはもとより生涯、大腸炎をはじめとする病気、さらには不眠症と精神不安定とに悩まされたと言われているが(注11)、その中でもとりわけ精神的にも肉体的にも苦しかった1902年から続く「暗黒時代」─例えば1903年2月には、3週間にもわたる不眠とそれに伴う疲労困憊を告白している(注12)─にシニャックをはじめとする新印象派画家たちに出会った。マティスはシニャックの『ウジェーヌ・ドラクロワから新印象派まで』(1899)の基になる『レヴュー・ブランシュ』の3つの記事を1898年に読んで以来、新印象派に注目していたが(注13)、1904年の夏に念願かなってシニャックらとともに南仏サン・トロペに滞在する(注14)。周知のように、その成果がマティスの初期ユートピア絵画《豪奢、静寂、逸楽》(1904-05)〔図1〕で1908年の「画家のノート」でアンリ・マティスは次のように述べている。「私が夢みるのは心配や気がかりの種のない、均衡と純粋さと静穏の芸術(un art d’équilibre, de pureté, de tranquillité)であり、すべての頭脳労働者、たとえば文筆家にとっても、ビジネスマンにとっても、鎮静剤、精神安定剤、つまり肉体の疲れを癒すよい肘掛椅子に匹敵する何かであるような芸術である」(注8)。これに類する言葉をマティスは生涯にわたり頻繁に述べているが(注9)、先に述懐した前衛芸術の反逆的な志向を鑑みれば、これは極めて例外的な芸術観であったと言わざるを得ない。実際、当時の前衛芸術家は平和主義的な「マティス組」と、破壊主義的な「ピカソ組」に分かれていたと伝えられ(注10)、その後50年以上続く前衛芸術の歴史を動かしたのは、明らかに後者のピカソに代表される動機であった。当時の破壊的志向をもつ前衛隆盛期にあって、マティスのこの例外的とも言える「均衡」と「精神安定」への希求はどこからやってきたのか? 考えうる一つの系脈が、ポール・シニャックやカミーユ・ピサロらが先導した1900年前後の新印象派である。― 2 ―
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