香取 (前略)大島さんのは実物にまごうような、写生のずば抜けたものだね。 脇本 如何にせん。調子が低いですね。 香取 その矛盾は確かにあるね。 脇本 写生だけでは芸術にならぬ。(後略)この後、秀真はこれを否定せずに進み、脇本楽之軒の「調子の高さは、大体に読書の量と正比例」するという言も飛び出す。先に示した大正5年の秀真の言葉と異なるのには、絵画と工芸美術の違い、時代の違い、双方が影響していよう。かつての金工にとって「写生」は超絶技巧を誇示するかっこうの手段であったが、すでに昭和2年(1927)、帝展第四部(工芸)に位置を占めた金工にとっては、単なる「写生」は技巧だけが悪目立ちし、あまり良い印象を与えないものとなっていたと考えられる。従って、工芸美術の実作と写生の関係は難しいものなのであるが、例えば《群鹿馳驅花瓶》〔図1〕の鹿の生き生きした様子は、実際に鹿の写生をしたかどうかはともかく、対象を良く観察する写生の成果・精神がないと出てこない造形であろう。新鮮であると同時に様式化した外来様式とも言える津田信夫の《青鸞献寿》〔図2〕と比較すると、写生を思わせるのはむしろ秀真の作品であるとも言える。⑵短歌における写生「さういふことが歌になると思つてゐるのかな。」この「さういふこと」は、昭和5年(1930)の座談において、土屋文明の一首「北国の春を著ゆかむ何処の店にも残り少き冬物さがす」に対する寒川陽光(鼠骨、1875−1954)の次の発言の後に、秀真が発した言葉である。(注25)「かういふ写生は歌にせずともいゝことだけれども、作者の生活だといふので歌にする。さういふことを歌にするのが、作者の生活や境遇が表れて居り、作者の感じた感情が織込まれてゐていゝといふ考へなのである。これは子規居士の写生論を多少穿違へて考へてゐる結果、何でも歌にしたがるんぢやないかと思ふ。その人の日記の備忘録の一節としては、さういふことも結構だらうと思ふけれども、読者の方から云へば、少しも美感を与へられない。子規居士は屢斯うした記述を戒めて居られる、殊に写生文に於て平凡な生活内容を写生するは芸術として排せねばならぬことを記して居られる。私は子規の芸術観を今も正しいと信ずる、従つて斯うした写生は成程さや― 119 ―
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