うでございますか、といふ程度にとゞまつてしまふ。(後略)」この次に再び土屋文明の短歌「靴下の安きを撰み年久に欲りにし花の一鉢を買ふ」が紹介され、他の発言者の言を挟んで出たのが秀真の「さういふことが歌になると思つてゐるのかな。」という発言であり、寒川陽光の文明批判を踏襲していると考えて良いであろう。「写生」に対する態度という点において、後にアララギ主流派となり「生活即短歌」「短歌は文学ではない」と唱えることになる土屋文明と、「子規庵歌会」『阿迦雲』の秀真らは、少なくとも歌論上、相容れないのである。⑶工芸美術の独立性─文学性を排除するために文学を学ぶ─秀真の著作を眺めると、時代を問わずその叙述が熱を帯びると思われることが2つある。工芸美術家の教養の必要性を主張する時と、工芸美術のジャンルとしての独立性を主張する時である。昭和5年(1930)、美術・工芸作品のタイトルについての「文学味」への言及を見てみよう(注26)。「帝展第三部には、命題だけでは何を表現したのか少しも分らないのがある。所が作品と併せ見ても、何故に『春』だか『秋』だか、何を以て『花』だか『雫』だか、ちつとも分らないのがある。命題は符号の様なものだとは云ひながら裸体の人間像につける命題に、あまりに文学味をつけようとするから、こんな題をつける様になるのだ。第四部の工芸にもへんな命題が多い。『聖華』『みのり』が鋳銅香炉であつたり、『灯ともす(しの誤か)頃』『春』が帯留金具であつたり『月光と日光』『朧薫幽清』が蒔絵の手箱で、『飛躍』『彌栄』が鋳銅花瓶であつたりしてゐる。何といふ文学的命題である事よ。工芸品に感情を盛らうとするからこんな事になるのであらう。文学と美術と、工芸と、各立場を異にしてゐる事を知らぬからでもある。」「俳句の一つ、歌の一首でもよみ得る工芸家で、美術と文学の如何なるものか位を識別し得る工芸家であつてほしい。」作品タイトルの文学性は、津田信夫の動物作品につけられる四字熟語などに顕著であり、当然秀真の念頭にもあったはずである(注27)。津田信夫はフランスでアール=デコ様式に触れて帰国し、大正15年(1926)には「无型」結成の後ろ盾となっていて、昭和2年(1927)に設置された帝展第四部(工芸)は、当初こうした新様式が席巻したが、基本的にアール=デコは、産業的な工芸と工芸美術を分かつ様式ではない。そうしたなか初めての帝展に《蝶鳥文八稜鏡》を出品した秀真の存在は、単に日本東洋の伝統を西洋の新傾向より重視したというだけでなく、工芸美術のジャンルとして― 120 ―
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