観音に顕現して人々を救う、という本地物型式をとる。つまり、物語の内容が清水寺と必然的に結合しているのである。しかし、『小男の草子』諸本のなかには、例えば早稲田大学図書館蔵絵入写本「ひきう殿物語」や、天理大学附属天理図書館蔵「慶長十二年絵巻」などのように、本地物のかたちを取らない系統がある。これらは、小男に神仏の地位も与えず、美女を見初める場としても清水寺が登場していない。にも拘わらず、末尾では突如として「ひとへに清水の観音の御利生なり」と清水寺の話題があがるのである(注6)。換言すれば、「繰り返し起こる数々の物語を通して、その場所はますます忘れがたいもの」になり、それゆえに、物語によって清水寺が選ばれているといえるだろう。それは他方で、岡見正雄氏が言われるところの、庶民的雰囲気を醸し出す仕掛けとしても評価すべきである(注7)。下京は、平安の時代より庶民が住した地域であった。『福富草紙』において、庶民世界を象徴するように、下京(五条から七条にかかる辺り)が舞台とされているごとく、鴨川に架かる五条橋(現・松原橋)(注8)から参詣が始まる清水寺を取り上げることによって、物語の庶民的雰囲気を演出するのに効果的な在地性を獲得することができたのではないだろうか。3.場所の美術史─お伽草子絵の可能性平安時代以来、日本には名所絵の伝統があり、元々は、歌枕としての名所が描かれていた。そのような中、『吾妻鏡』の文治5年(1189)9月17日条には、奥州平泉の観自在王院の阿弥陀堂に「洛陽帚地名所」を描いた障壁画があったことが記されている(注9)。その具体的な名所に「清水之様」も含まれており、歌枕ではない清水寺も、早くから名所として捉えられ、描かれていたことが知られる(注10)。しかし、管見のかぎり、清水寺を描く現存作品の先例は、13世紀後半作の「法然上人絵伝」巻十三(知恩院蔵)である〔図5〕。続く作例は16世紀前半まで作期が下って伝土佐光久筆「清水寺図」扇面(東京国立博物館蔵)となるが、やはり、清水寺が名所として盛んに描かれるようになるのは、洛中洛外図の登場を待たねばならない。そこで〈清水寺〉という場所の美術史を考えたとき、「法然上人絵伝」と洛中洛外図諸作との間を埋めてくれるのがお伽草子絵であるといえるのではないだろうか。お伽草子絵といえば、室町時代後期以降、ユーモラスな雰囲気を醸し出す素朴で奔放な画風が魅力であり、絵画史料として取るに足らないとの指摘は否めない。しかし、描かれたモチーフを場面ごとに比較すると、例えば「伏見常盤絵巻」(大阪市立美術館蔵〈田万コレクション〉)には、音羽の滝、石段、巡礼者、水を汲む女、奥の院など、― 128 ―
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