あり、この作品は技法だけでなく、その主題の上でもシニャックの《調和の時》(1894-95)〔図2〕に見られる静謐のユートピアを受け継いでいた。むろんマティスの「新印象派時代」は1年足らずで過ぎ去るが、直後の代表作《生きる喜び》(1905-06)〔図3〕でも、その主題は受け継がれ、2年後の1908年には先に述べたように「均衡と静穏」、「精神安定剤」としての芸術を標榜するようになるのである。マティスに与えた新印象派の影響を過大評価してはならないが、心身の「癒し」を志向する彼の芸術観が完全にオリジナルであったとは言い難い。例えば1893年から94年にかけて、新印象派の画家達は、パリのラフィット通りに、自分たちの作品を売るための「ブティック」を開いたが(注15)、その年の冬、シニャックは新印象派の同士であるファン・レイセルベルヘへ、次のような手紙を送っている。 現在ではアメリカのゲッティ・センターに所蔵され、最近まで美術史の議論に上ることのなかったこの手紙のなかで(注17)、シニャックは、ブティックの青い壁と赤い文字は、「喜びと、光と、力と、健康」を唄っていると主張する。拙著『新印象派のプラグマティズム』(2012)でも明らかにしたように、新印象派の画家たちは、色彩療法、同毒療法、水療法などに高い関心をもっており、心身の「均衡」と「安定」を目指すこれらの民間療法が、補色間の「均衡」を目指す彼らの美学と、権力の「均衡」を目指す彼らのアナーキズムの政治姿勢に親和していたと考えられる(注18)。このような「均衡」や「健康」への希求は、ある意味で裏腹な現実を暗示している。マティスに生涯、健康不安がつきまとっていた事実は先に述べたが、新印象派の画家たちもまた、健康に不安を抱えていた。シニャックとアンリ・エドモン=クロスがパリから地中海岸へ1892年に移住したのは、ともに喘息などの持病をもっており新鮮な空気を求めてのことであったし(注19)、ピサロは早くも1872年以来生涯にわたり、ヴァン=ゴッホの最期を看取った同毒療法医師ポール・フェルディナン=ガシェに家族ぐるみで頻繁に治療を受けている(注20)。またジョイス・H・ロビンソンは、マティスの《生きる喜び》に見られるような「均衡」と「健康」への希求は、ヨーロ「3月には私たちの展示館はないのではないかと思います。なんて悲しいことでしょう。私たちのブティックは、ラフィット通りですでに忘れ去られています。ダリア色の上にブルーがあります。丸くて、メタリックな文字、ヴァーミリオン・レッド。あのブティックはかつては、悦びと、光と、力と、健康と…そして勝利の、エネルギーに満ちた良い歌を唄っていました」〔図4〕(注16)― 3 ―
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