のもとに、姫君の寝所の下に埋められている蟇蛙が現われ、そこから掘り出して欲しいとの願いが病のもととなっていることを説明し、助命を乞う。蟇蛙は願いを聞き入れてくれたなら、将来の幸せを約束するという。翌日、姫君の寝所の下を掘り、蟇蛙を取り出してやると、姫君の病は見事に治った。家の主人は大いに喜び、男を婿にとり立てる。家は非常に富み栄え、男は蛙との約束にしたがい、祠を作り、拝殿を建て、御神楽や法華経供養などを絶えることなく行った。さて、この物語は、清水寺のくだりがなくても優に成立する展開であることから、「冒頭での清水寺観音への参詣祈念の一条は、端的に言えば、取って付けた趣向に過ぎ」ず、「清水寺の霊験をよく趣向とする多くの中世説話や物語にならったものとしてよい」としばしば指摘される(注11)。すなわち、前述の「ひきう殿物語」や「慶長十二年絵巻」と同じく、物語によって清水寺が選ばれた一作例と見なされてきた。では、描かれた景観も、清水寺ならびにその周辺の情景とまったく無関係なのだろうか。お伽草子絵が、ある特定の場がどのような景観表象として絵画に存在してきたのか解明するに足る有益な考察対象となることはすでに指摘したが、本章では、描かれた景観の分析から、本絵巻の舞台が東山の麓である意義を再考してみたい。本絵巻は二段構成をなすが、第一段冒頭は、男が東山の上から麓を見遣り、二頭の牛が干した布を食べていることを目撃する場面から始まる。ところで、この布はただの洗濯物なのであろうか。「蛙草紙絵巻」と同じ16世紀に制作された初期洛中洛外図、なかでも裏庭の生活も丁寧に描く歴博甲本を例に見てみると、洗濯物といえば、物干竿に袖通しで着物を干す情景が通例であることがわかる〔図11〕。また、着物ではなく布をさらす光景を探してみると、はり殿や型置き師〔図12〕といった職人の姿が確認できるものの、本絵巻のように「もがり」(茂架籬・虎落)に布を張り巡らすように干す情景とは異なる。そのような中、下坂守氏が、同じく16世紀制作の「東山名所図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)ならびに「洛外名所図屏風」(太田記念美術館蔵)の図様より〔図13〕、四条河原に藍染めを業とした「青屋」が存在したことを指摘されたのは興味深い(注12)。〔図13〕で河原近くに干された布は藍色であり、「蛙草紙絵巻」のそれとは色が異なるものの(注13)、「青屋」があった五条通の北、鴨川の西畔という場に注目するならば、少し時代は下るが17世紀作の「洛中洛外図」大阪市立美術館本〔図14〕や高津古文化会館本〔図15〕にも、当該個所に鴨川で白い反物を洗う水元の情景を確認することができる。わずか三点の作例からではあるが、同じ場に繰り返し採用されてい― 130 ―
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