注⑴ 網野善彦ほか編『いまは昔 むかしは今 5 人生の階段』福音館書店、1999年、78頁⑵ 新間水緒「千手の誓ひぞたのもしき─お伽草子と清水寺観音─」『日本文学論究』第4号、⑶ 『今昔物語集』には、清水寺の霊験説話が八話収められているが、そのうち巻第十六の四話は、観音の媒介によって良縁を得るという現世利益譚である(「女人仕清水観音蒙利益語 第九」、「貧女仕清水観音給御帳語 第三十」、「貧女仕清水観音給金語 第三十一」、「貧女仕清水観音得助語 第三十三」)。⑷ 『さよひめ』や『千手女の草子』、『梵天国』といった代表作のほか、清水寺の申し子信仰の広まりは、文字史料からもうかがい知ることができる。『実隆公記』文明7年(1475)8月29日条には、建仁寺大昌院の天隠龍澤(1422〜1500)が三条西実隆のもとを訪れ、自らは観音の申し子だと語った内容が書き留められている(徳田和夫「物語絵巻の創作─画中詞・語り物・狂言と歌謡─」『お伽草子研究』三弥井書店、1988年、128頁)。⑸ 徳田和夫『お伽草子』(岩波セミナーブックス108)、岩波書店、1993年、50頁⑹ 徳田前掲注⑸、87頁⑺ 岡見正雄「室町ごころ」『国語国文』第20巻第11号、1951年11月、1〜17頁(同『室町ごころ』角川書店、1978年に再録)⑻ 現在の五条橋は、天正17年(1589)に、豊臣秀吉が方広寺大仏参詣のために現在の場所に移したもので、それ以前は、現・五条橋より一筋北の松原通に中島を挟むかたちで架けられていた(瀬田勝哉「失われた五条橋中島─洛中洛外を読む─」『月刊百科』第304号、1988年4月、7〜18頁、同『洛中洛外の群像─失われた中世京都へ』平凡社、1994年に再録)。る事物の図様は、その事物がそれだけこの地区の風景表現に必要不可欠な標識であったことを物語っている。したがって、巨大な「もがり」を設け、布をさらす情景は、五条通の北側、鴨川の西畔という特定の場を示す図様なのではないだろうか。すなわち、「蛙草紙絵巻」において清水寺は、「取って付けた趣向」ではなく、東山の麓、そしてそこから眺める「もがり」の情景と合わせ、本物語の発端として必然であったと考えられるのではないだろうか。おわりに以上、〈清水寺〉という切り口によってお伽草子絵の横断的研究を進めてきた。本研究は実験的な試みではあったが、その成果は、お伽草子絵研究への寄与のみならず、同時代の所産である参詣曼荼羅や洛中洛外図などとの、作品形態の差を超えた有機的なつながりの考察にも相互に裨益するところが大きいと考える。今回取り上げられなかった〈清水寺物〉とでもいうべきお伽草子絵に関しても考察を進め、新たな美術史的お伽草子絵研究の可能性を探っていきたい。2011年12月、27〜43頁― 131 ―
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